昼頃から偏頭痛に悩まされた。いつもは眼精疲労から来るのだが、今日のは体調不良から来たようだ。

 19時、久が原の某骨董屋に。焼き物ゼミ。前回は出張で参加できなかった。今まで山上宗二記をテキストにしてきたが、今回は番外編として「茶の湯絵画資料集成」に載っている絵画から茶道具の成立を探るといった内容。昔の絵画をこのような視点で見ることがなかったので面白い。思っていた以上に道具の描写は細かい。
先生はこれらの絵画資料を元に、「大正名品鑑」に対し、近現代の視点で名品を見ているという批判を試みている。「そこに当時の茶人の視点はない。名品は時代によって、拡大していったと考えられる。江戸の名品が室町の名品であるとは限らない。」江戸時代に新たに認定された名品。でもそれが室町時代の価値観でも「名品」と言えるとは限らない。
 絵画をよく見ると、何気ない道具がとんでもないものであることが判り驚く。中世の絵画で描写されている黄金の釜や漆塗りの石臼など。貴族の七夕の遊びは花飾りだったらしい。当時、花は男の遊びだったのだ!先生は「押板」について言及した。床の間とはまた違う、飾り場所。
 中世、西日本は輸入唐物が大量に出回っていたようだ。勿論庶民レベルの話ではないが。長い間には膨大は焼き物が日常、使われていたことだろう。そのような日用品から茶道具が「見出された」と先生は考えている。茶会ももてなしの場というよりも、茶のセミナーや研究会みたいなものだったのではという話だ。茶の「名人」は今の大学教授みたいなものか。茶人といえば、千利休は大陸系の人だったらしく、彼の嗜好に文化的影響がみられるらしい。室町時代辺りではお茶はハレの場所で飲まれるものだった。それがケの場所に移った。この逆転。
 それにしても、日本史に疎い私にとっては意外な話の連続。平安時代以降の歌は万葉時代とは違い、ゲームだったという話はとても興味深い。PBMの元祖と考えられないだろうか。ゲーム故にプレイヤー本人の体験歌でないものもあるという。夫を亡くした妻の歌の対としての、妻を亡くした夫の歌。考えてみれば連歌なんて、PBMそのものだ。言葉のキャッチボール。歌集の「読み人知らず」の歌。実際は本当に読み人が判らないのではなく、編者本人が歌集のバランスを考えて作り、差し入れた歌だったという話は本当だろうか?NPCみたい・・・。自分が小学生のときの宇宙論が役に立たなくなっているのと同じ事が歴史学の世界でも起こっている。昨日の常識は今日の非常識。
 私は小中学生のとき、教科書や歴史ドラマの影響で、古の日本に対し「人々は夢も希望も平安もなく争いばかりで苦しみしかなかった。被支配階級は貴族や武士階級など支配階級に支配され、人権はなく、搾取されつづけて悲惨な生活を送っていた。」という認識を持ってしまっていた。戦後、余所の国に基本的人権を確立させてもらうまで、色彩のない暗黒の世界が続いていたと捉えていた。勉強していて嫌な気持ちになった。日本史が嫌いになった。日本史が嫌いということは、日本という国が嫌い、日本に生きてきた祖先が嫌いに繋がる。そして、その論理的帰結として自分が嫌いということに繋がる。戦後民主主義教育万歳。
 戦後教育といえば、日本語そのものも造語みたいなものだ。NHKの特集番組を見て、GHQ占領当時、日本語表記改変の動きがあったというのを知った。「漢字仮名混じり文は難しい漢字を覚えなければ行けない。それが高い文盲率を生み、民主教育の妨げになっていたのだ。だから日本人の大衆は愚かなまま戦争に突入してしまったのだ。」アメリカ的思考。お隣の国みたいに、漢字を廃止し、カタカナのみの表記にさせられる可能性があった。この文章を全部カタカナで表記したら・・・読みたくないなぁ。どうにかそれは避けることができた。そこまでが番組の内容だった。
 ・・・が、話は終わらない。ここ[->リンク]で語られている国語改革の話は本当だろうか?
>(抜粋)クニの中心に王がいては民主主義といえないから「国」にしようとか、日本語に魅力がなくなっては困るから「魅」を当用漢字に入れよう、詩人や学者に差し支えがあるから人名漢字別表に土岐善麿の「麿」、大野晋の「晋」も入れよう、などとかなり主観的に決められた・・・
 呆れるほど、イデオロギー的というかなんというか。もはや笑い話。なんかこう、足下をガッとすくわれたような気持ちになってしまう。閑話休題。

 ゼミが終わるといつもお茶会になる。次回の日程を決めているときに、先生と一緒に美術館巡りをしたいという話がでた。お忙しい先生の日程が開いているときにできればいいなぁと。丁度、来週末5/25から根津美術館で開館60周年記念名品展「第二部 国宝 漁村夕照図・鶉図 ―東山御物と唐絵の世界―」が開催される。これを見に行こうという話になった。日程は・・・私は行けるかどうか判らないので、棄権した。でも、悩む〜。こういう機会は滅多にない。以前ニフティの芸術フォーラムのオフ会として、琵琶湖湖北の十一面観音像を拝観するツアーに参加したことがある。あのときも博物館館長さんが引率してくれ、解説を聞きながら見ることで深い見学をすることができた。今回もそういう体験ができるはずだ。
 先生が帰られた後、ゼミ参加者の親子さん達がもしかしたら秋から参加できなくなるかもと言った。お仕事の都合?と店主が尋ねると、ニューヨーク付近であるモノの認可が降りるのを待つためだという。あるモノとは「iBot」と呼ばれる画期的な車椅子だ。ゼミに参加している娘さんは電動車椅子に乗っている。iBotはこれよりも遥かに高機能。階段を単独で登り、今までの車椅子では不可能な悪路を走破できる。素晴らしい機械なのだが、日本ではいつ認可が降りるか判らないから、アメリカで手に入れたいということなのだ。健常者である私でもTVでそれを見て衝撃を受けた。ならば、二人にとってあの機械はどれほどのものだったろう。
 「日本はなかなか認可が降りないから・・・」 安全性確認は重要であることは認識しているが、車椅子利用者の自立のための「翼」となるiBotについてはなるべく早い認可が降りて欲しい。というか、国が積極的に広めるべきだと思う。バリアフリー化の資金を回して補助金を出したり、価格低下の支援をしたり。できることはあるはずだ。

『秘められた胸の奥でながす涙が この世の中で一番かなしい涙だと人はいう 泣いていることなど誰にもわかりはしないが 人は志をおなじくする者の死に 歯を食いしばって涙をながす 何も言わず心の奥で涙をながす』

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