ミーハーなので、「小泉内閣メールマガジン」に読者登録した。

 昨日、歩き煙草をしていた男に発した言葉を反省。あれは呪言だった。
 怒鳴りもせず、嘆きもせず、感情を抑え、淡々と発した言葉。瞳に微か浮かぶ侮蔑。逆上したりバカにしたりする防衛機構を働かせられる機会を奪い、かつ忘れることが出来ないように。「悪の華」のボードレールの性格形成を決定づけた、万引きした幼少のボードレールを捕まえた店の親父の制約(ギアス)の呪文「オマエハ、『ドロボウ』ダ」の如く。怒鳴ったり、殴ったりというのは行為者の感情の発露でしかない。対象がその感情を受け入れるとは限らない。無視することも可能だ。しかし、理性と蔑みの感情がコンプレックスされた言の葉は毒薬を塗った短刀の如きもの。

 尤も、同情の余地がないところでもある。歩いていた私が振っていた手の高さは子供の顔の高さとそれほど差がない。走り回る子供がぶつかる可能性がないとは言えない。もし顔や目などに当たったとき、彼はどう責任を取るのか?
 飛び出し事故でも運転手の前方不注意が指摘されるように、歩き煙草をしている人の持つ加害可能性と発生時の責任は大きい。歩き煙草をしている人はまずないと考えているだろう。が、現に私の左には痕がある。この1つの事例の存在は別の事故の可能性を明らかにしている。

 煙草を吸う行為。何故、煙草を吸い続けるのだろうか?多くの依存症と同様に、煙草を吸うという行為も代償行為としてのそれである。真の欲求の代わり。薬物中毒としてのニコチン中毒ならば別の取得方法でもよいはずだ。そうではない。吸うという行為そのものが代償行為なのだ。それは精神分析的には、口唇期の欲求不満から来ると考えられる。つまり、「ママのおっぱい」の代わりとしての煙草だ。
 自立を重んじるアメリカで煙草が避けられる様になったのは、単に本人の健康を損ね、死期を早め、そして他人にも害をまき散らすからだけではない。「おしゃぶり」がなければ精神が安定しない弱さ、止めることが出来ない自己管理能力の無さが問題になっているのだ。(この考え自体も病的なのであるが)
 そんな訳で私の頭の中では「煙草=おしゃぶり」という認識エンジンが存在しており、それが働き出すとポスターやCMで格好良い男が煙草を吸っている姿に「おしゃぶり」をくわえている滑稽な姿が二重写し重なって見えてくる。
特に街中を歩きながら煙草を吸わずに居られない人を見ると、すぐに認識エンジンが起動して、「おしゃぶり」をくわえずには居られない人に変換される。煙草を加えて歩いているスーツ姿の大の大人がまるでお遊戯している幼稚園児のように見えてくる・・・。

 歩き煙草をする人に対し、「呪言」を言ってみた。

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