いぬもあるけば・・・「TV三昧」
2001年6月30日 NHKの討論番組を見ていた。面子が豪華で飽きさせない討論だった。NHKがこの時期にあれほどの人を集めて討論番組を開くとは・・・。
で、それを見終わった後、NHK教育に変えてダラダラと何気なく見続けていた。そのうち「国宝探訪」という番組が始まった。今回は「瀟湘八景図」の紹介。「をを!漁村夕照図も出てるよ。そういえばこの間、根津美術館まで見に言ったなぁ。」などとぼんやり思いながら眺めていた。話は室町時代に巻物であった瀟湘八景図が切り分けたことを解説していた。「そういえば、そんなことを言っていたなぁ」
と、画面に見たことのある男性が。
「そうそう、竹内先生が・・・ガッ!!」
思い出していた当人が画面でいきなり出てくるというのは、そうあることじゃない。余りのことに周囲の部屋に響きわたる程の驚きの声を挙げてしまった。
そういえば、NHKと割と関わりがあると言っていた。が、たまたま付けていたTV。先週や来週ならばこの番組を見ていたとは限らない。不思議な縁を感じて、思いこんでしまった。
その後も、チャットをしながらTVを見続ける。NHKは印象深い番組をやってるねぇ。赤塚不二夫先生を取材した番組で安孫子先生の姿を拝見。赤塚先生は今、「点字漫画」を作っているらしい。なんやかんや言ったところで、トキワ荘の人は違うな。「人生、泣き笑いでやんす」という色紙の言葉が心に残る、そして・・・そして、気がつくと「こころの時代」の時間。ふふふ・・・(沈)。
「こころの時代」は「神の与えた試練とともに」というタイトル。ターミナル・ケアの充実に尽力する老医師の話。かつてバリバリの外科医で、メスを振るうことで患者を救いたいと考えていた。そして、「キリスト教徒である私は他の医師よりも患者の患者を愛せるんだ」という自負を持っていた。
いつしか、患者を救おうという思いが「私は患者を救えるんだ」という万能感にすり替わっていた・・・。しかし、彼の意図に反して切っても切っても治らない患者が出てくる。彼は「治療者」という力に振りまわされていた。外科的方法にこだわり、「人を救う力のある自分」というイメージに固執していた。
その「傲慢」は自分の娘の不慮の死と己のガン発病によってうち砕かれた。運命が角笛を鳴らし、それこそが「躓き」であることを悟らせた。そして気付く。「患者中心の医療ではなく自分中心の医療をやっていたことに」
この話は如何に「キリスト者」になることが難しいことかを教えてくれる。キリスト教徒=キリスト者ではないという事実。何かを信仰している。もしくは何かに使命に服している。それを1つの優越だと思い、振る舞った瞬間、誓いを破ったあの男のように全てを失ってしまう。いや、元々持っていなかったことに気付かされる。
この医師は今はターミナルケアを通して、誰にでも訪れる死の時を人生完成の時とできるように手助けすることを目指している。「治す」ことが出来ない患者に対して医師が取りうる態度を考えながら。
「傲慢さを捨てることの重要さ」
この事に関して、その前の番組であった赤塚先生の語りと重なるところがある気がする。
「何も知らない方がいい。何も知らないならば色々教えてもらえる。低地に水が流れるように。」
その後のニュース番組で歌声喫茶「カチューシャ」が閉店するというニュースを知る。カラオケの流行によって廃れてしまったという。歌声喫茶とカラオケ。似ているようでかなりベクトルが違う気がする。歌声喫茶は「皆で」という志向で歌うことそのものが目的。カラオケは「一人で」という志向で「如何に」歌うかという評価が目的。盆踊りとダンスの違いか。
さて、そういう前提の上で、面白い動きがある。「ザバうた」がそれだ。この動きを理解することによって、新たな市場が形成される可能性がある。ある意味、それ以上の影響力/世界構築能力を持つものが。キーワードはやはり「PBM」。
番組が変わった。京野菜のお話。伏見とうがらし、鷹峯とうがらし、万願寺とうがらし、賀茂なす、山科なす、九条ねぎ、壬生菜、みず菜。このうち知っているのは壬生菜とみず菜ぐらいだ。都市生活者は知らないし、近郷農業地帯の人も余り知らないが、かつて様々な種類の地域野菜があった。しかし、効率化を求める中で育てにくい種は捨てられた。「効率化ヲ求メル中デ育テニクイ○ハ捨テラレタ。」
最後に・・・「偏屈ばっかり言ってないで、TVぐらい普通に見ていろよ!」とツッコミを入れてみる。(大汗)
で、それを見終わった後、NHK教育に変えてダラダラと何気なく見続けていた。そのうち「国宝探訪」という番組が始まった。今回は「瀟湘八景図」の紹介。「をを!漁村夕照図も出てるよ。そういえばこの間、根津美術館まで見に言ったなぁ。」などとぼんやり思いながら眺めていた。話は室町時代に巻物であった瀟湘八景図が切り分けたことを解説していた。「そういえば、そんなことを言っていたなぁ」
と、画面に見たことのある男性が。
「そうそう、竹内先生が・・・ガッ!!」
思い出していた当人が画面でいきなり出てくるというのは、そうあることじゃない。余りのことに周囲の部屋に響きわたる程の驚きの声を挙げてしまった。
そういえば、NHKと割と関わりがあると言っていた。が、たまたま付けていたTV。先週や来週ならばこの番組を見ていたとは限らない。不思議な縁を感じて、思いこんでしまった。
その後も、チャットをしながらTVを見続ける。NHKは印象深い番組をやってるねぇ。赤塚不二夫先生を取材した番組で安孫子先生の姿を拝見。赤塚先生は今、「点字漫画」を作っているらしい。なんやかんや言ったところで、トキワ荘の人は違うな。「人生、泣き笑いでやんす」という色紙の言葉が心に残る、そして・・・そして、気がつくと「こころの時代」の時間。ふふふ・・・(沈)。
「こころの時代」は「神の与えた試練とともに」というタイトル。ターミナル・ケアの充実に尽力する老医師の話。かつてバリバリの外科医で、メスを振るうことで患者を救いたいと考えていた。そして、「キリスト教徒である私は他の医師よりも患者の患者を愛せるんだ」という自負を持っていた。
いつしか、患者を救おうという思いが「私は患者を救えるんだ」という万能感にすり替わっていた・・・。しかし、彼の意図に反して切っても切っても治らない患者が出てくる。彼は「治療者」という力に振りまわされていた。外科的方法にこだわり、「人を救う力のある自分」というイメージに固執していた。
その「傲慢」は自分の娘の不慮の死と己のガン発病によってうち砕かれた。運命が角笛を鳴らし、それこそが「躓き」であることを悟らせた。そして気付く。「患者中心の医療ではなく自分中心の医療をやっていたことに」
この話は如何に「キリスト者」になることが難しいことかを教えてくれる。キリスト教徒=キリスト者ではないという事実。何かを信仰している。もしくは何かに使命に服している。それを1つの優越だと思い、振る舞った瞬間、誓いを破ったあの男のように全てを失ってしまう。いや、元々持っていなかったことに気付かされる。
この医師は今はターミナルケアを通して、誰にでも訪れる死の時を人生完成の時とできるように手助けすることを目指している。「治す」ことが出来ない患者に対して医師が取りうる態度を考えながら。
「傲慢さを捨てることの重要さ」
この事に関して、その前の番組であった赤塚先生の語りと重なるところがある気がする。
「何も知らない方がいい。何も知らないならば色々教えてもらえる。低地に水が流れるように。」
その後のニュース番組で歌声喫茶「カチューシャ」が閉店するというニュースを知る。カラオケの流行によって廃れてしまったという。歌声喫茶とカラオケ。似ているようでかなりベクトルが違う気がする。歌声喫茶は「皆で」という志向で歌うことそのものが目的。カラオケは「一人で」という志向で「如何に」歌うかという評価が目的。盆踊りとダンスの違いか。
さて、そういう前提の上で、面白い動きがある。「ザバうた」がそれだ。この動きを理解することによって、新たな市場が形成される可能性がある。ある意味、それ以上の影響力/世界構築能力を持つものが。キーワードはやはり「PBM」。
番組が変わった。京野菜のお話。伏見とうがらし、鷹峯とうがらし、万願寺とうがらし、賀茂なす、山科なす、九条ねぎ、壬生菜、みず菜。このうち知っているのは壬生菜とみず菜ぐらいだ。都市生活者は知らないし、近郷農業地帯の人も余り知らないが、かつて様々な種類の地域野菜があった。しかし、効率化を求める中で育てにくい種は捨てられた。「効率化ヲ求メル中デ育テニクイ○ハ捨テラレタ。」
最後に・・・「偏屈ばっかり言ってないで、TVぐらい普通に見ていろよ!」とツッコミを入れてみる。(大汗)
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