いぬもあるけば・・・「癒し系」
2001年7月5日 別にNHKしか見ていない訳ではないのだが・・・。実際のところ、平日はテレビ東京系のWBSというニュース番組をよく見ているけれども、全国ネットでないのでここにそれの内容を元にしたことを書くのは少々ためらわれる。時間的に深夜帯にTVを見るが、深夜番組も昔からすると、面白い番組は減った気がする。そんなわけで夜はNHKの番組をだらだら流すことになる。
人間ドキュメント「心でメスを握る」を、そしてETV特集の癌患者の現状を考える番組を見た。
前者はある大学病院の外科の教授の話。師から学んだ外科医の心を後輩に確実に伝えようと、教育プログラムを検討・実践している。外科医を「育てる」。思いは強い。看護実習で患者に接させたり、先達である自分の医療行為を見せたりなどを通して学ばせる。自らも師から受け継いだ「理想の医」の姿。私の友人の中にもこの道を選んだ者がいるのだろうと考えながら見ていた。
後者は患者よりの番組。私が見たのはシリーズのうちの1つだったようだ。中で印象に残ったのは「ホールネス(人間の全体性)」という単語。癌患者に対しては治療行為だけでなく、「癒し」も求められる。その癒しの鍵となるのがホールネスの獲得ということになる。逆にいえば、そういう志向や視点を持たない治療行為は癌患者にとって、もはや苦痛でしかない。患者にとっては治癒は勿論であるが、「如何に生きるか」ということが問題となる。というか、それが真剣に考えるべき問題であることを病によって認識させられている。それはある意味で癌との勝ち負け中心の生き方ではない患者の生き方の模索に通じるのかもしれない。
「全体性」と「唯一性」・・・ 番組を見ながら、フランクルの著作物を思い出した。彼の言うところの「生きる意味」。
しかし、自ら使っているがいつから「癒し」という言葉はこれほど手垢にまみれてしまったのだろう。粗悪な孫コピーの如く掠れてしまい、言葉が持つ重みはスカスカになってしまった。今ではこの単語を使うのに一種の覚悟が必要になる。言葉本来の「意味」とそれが消費されてきた「流れ」がコンプレックスされデータベースとなっていて、使用者にアンビバレンツな感情を生じさせる。データベース化、つまり情報化の力は言語使用者を「その単語を使った者」として強制的にカテゴライズする。
アーティストが自分の作品群に対し「癒し系」などと言われるのに抵抗を感じるのはここから来ているのではないだろうか?
(a)「貴方の作品は人を癒す力がありますね」と言われるのと(b)「貴方の作品は癒し系ですね」と言われることの違い。
「系」という言葉は暴力的だ。個性を否定して1つのカテゴリーに押し込める。個人に関わる部分以外で使われる分にはそれほど問題ではないが、今は個人に関わる部分でも使われている。社会学では「系」という言葉の現代社会における増殖をどう分析してるのだろうか?
そうそう、ファンに「癒し系」といわれてしまったとき、(b)の文脈を無理矢理(a)の文脈に置き換えて認識する方法がある。「系」を太陽系という使い方、「system」に変換するのだ。「癒し系」ならぬ「癒しsystem」。同様に「渋谷系」も「渋谷」を構成し生み出すシステムの1つと認識してみる。静的なカテゴリーではなく、動的なシステム、自らそれを生み出すものというイメージに変換される。
人間ドキュメント「心でメスを握る」を、そしてETV特集の癌患者の現状を考える番組を見た。
前者はある大学病院の外科の教授の話。師から学んだ外科医の心を後輩に確実に伝えようと、教育プログラムを検討・実践している。外科医を「育てる」。思いは強い。看護実習で患者に接させたり、先達である自分の医療行為を見せたりなどを通して学ばせる。自らも師から受け継いだ「理想の医」の姿。私の友人の中にもこの道を選んだ者がいるのだろうと考えながら見ていた。
後者は患者よりの番組。私が見たのはシリーズのうちの1つだったようだ。中で印象に残ったのは「ホールネス(人間の全体性)」という単語。癌患者に対しては治療行為だけでなく、「癒し」も求められる。その癒しの鍵となるのがホールネスの獲得ということになる。逆にいえば、そういう志向や視点を持たない治療行為は癌患者にとって、もはや苦痛でしかない。患者にとっては治癒は勿論であるが、「如何に生きるか」ということが問題となる。というか、それが真剣に考えるべき問題であることを病によって認識させられている。それはある意味で癌との勝ち負け中心の生き方ではない患者の生き方の模索に通じるのかもしれない。
「全体性」と「唯一性」・・・ 番組を見ながら、フランクルの著作物を思い出した。彼の言うところの「生きる意味」。
しかし、自ら使っているがいつから「癒し」という言葉はこれほど手垢にまみれてしまったのだろう。粗悪な孫コピーの如く掠れてしまい、言葉が持つ重みはスカスカになってしまった。今ではこの単語を使うのに一種の覚悟が必要になる。言葉本来の「意味」とそれが消費されてきた「流れ」がコンプレックスされデータベースとなっていて、使用者にアンビバレンツな感情を生じさせる。データベース化、つまり情報化の力は言語使用者を「その単語を使った者」として強制的にカテゴライズする。
アーティストが自分の作品群に対し「癒し系」などと言われるのに抵抗を感じるのはここから来ているのではないだろうか?
(a)「貴方の作品は人を癒す力がありますね」と言われるのと(b)「貴方の作品は癒し系ですね」と言われることの違い。
「系」という言葉は暴力的だ。個性を否定して1つのカテゴリーに押し込める。個人に関わる部分以外で使われる分にはそれほど問題ではないが、今は個人に関わる部分でも使われている。社会学では「系」という言葉の現代社会における増殖をどう分析してるのだろうか?
そうそう、ファンに「癒し系」といわれてしまったとき、(b)の文脈を無理矢理(a)の文脈に置き換えて認識する方法がある。「系」を太陽系という使い方、「system」に変換するのだ。「癒し系」ならぬ「癒しsystem」。同様に「渋谷系」も「渋谷」を構成し生み出すシステムの1つと認識してみる。静的なカテゴリーではなく、動的なシステム、自らそれを生み出すものというイメージに変換される。
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