出張帰りの車中でカール・グスタフ・ユングの「ヨブへの答え」(みすず書房)を読了。
河合隼雄の著作などを通し、元型や集合的無意識などで知られているユングだが、この本は私の中にある、そのような「普通の」心理学者としての彼のイメージを一変させた。
 西平直の「魂のライフサイクル ユング ウィルバー シュタイナー」(東京大学出版会)を読んだときも何故他の二人と並ばれるのは最初判らなかった。読んでも二人とはかなり立場や発言意図が違うのではないのかとユングに関する記述については捉えていた。
 本の帯の惹句では「ユングの最高傑作」とあった。しかし私はこの本のタイトルを知らない。「タイプ論」の方が知られているはずだ。それすらも、つまりユングの著作は1つも読んだことが無い。手に取ったのはユングがあのヨブに対してどのように語るのか、そのことに興味を持ったからだ。
 本を開いてから、驚きの連続だった。
「私は・・・聖書の記述をもこころ(ゼーレ)の発言とみなす。」
 旧約聖書の「ヨブ記」の主人公(ヨブ)にシンクロさせ、彼が感じた感情・イメージを自らの心に内に湧き上がらせ、それを足ががりに聖書を、キリスト教の神イメージを読み解くというものだった。ある意味、とても危険な思索だ。そして、その方法は私に馴染みぶかい手法だった。何故ならば、それはPBMの戯れ方の主たる方法だからだ。

 旧約聖書を読む上で、教徒でないものにとって尤も難しい部分の1つが「ヨブ記」だと思う。ヤーヴェ、正しき発音が伝えられていない神のヨブに対する言動は余りに気まぐれで過酷だ。全知で義であるはずの神がそのようなことをするのか?ユングはそれをそのまま受け入れた。つまり、そうではなかったのだと。
 それからの展開は・・・凄い。
「ヨブを陥れようとする試みが失敗したことが、ヤーヴェを変えたのである。」
「彼の被造物が彼を追い越したからこそ、彼は生まれ変わらなければならないのである。」
「神は人間になることを欲した、そして今も欲している」
「《マリア被昇天》が教義化されたことによってプレローマにおける聖婚が暗示され、それはまたすでに述べたように未来における神の子の誕生を意味しており、その神の子は・・・」
 《太陽と月の息子》・・・《彼は無数の名を持つ》《名状しがたいもの》

 文中で使用されるセフィロートやプレローマなどカバラーやグノーシス主義の用語。私は読み進めるにしたがって、あの暗黒神話とあのアニメを思い起こさずには居られなかった。パロディは時として、裏に潜むものを明らかにしてしまう。そう、まさに「無意識的」に。イメージの記述として読み解けば、それらは全て真実の一面を照射していると考えられないか?
 ユングの他の著作を読む必要がありそうだ。個性化過程について・・・。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

最新のコメント

この日記について

日記内を検索