いぬもあるけば・・・「賢治と光太郎」
2001年9月9日 朝早く起きて、もう一度温泉に浸かるつもりだった。が、軽い疲労が甘美な二度寝に誘う。Zzzzz・・・・朝湯は朝寝に変わった(汗)。 朝食はバイキング形式。 当初、食後に温泉にでも行こうかと考えていたが、バスの時刻表を確認したところ、10時前にチェックアウトした方がよいことが判った。11時までいられるのだが、そうすると後の日程が厳しい。 慌てて出発の準備。 どうにかバスに間に合った。新花巻駅までの道のり、ほとんど寝ていた。
11時、新花巻駅の駅レンタカーでホンダの小型車をレンタル。周回バスはとても安いが機動性に欠ける。行き当たりばったりの私には車の方が都合が良かった。
今日の最初の目的地は宮沢賢治記念館。 宮沢賢治記念館はこの手の施設にしては素晴らしいものだった。賢治そのものが多面性を持っている人であることもあるが、それぞれの面を理解するための展示がなされている。賢治のセロなども展示してあった。
賢治の来歴に、関わりのあった人物の説明が加えられている。私が注目したのは「斎藤宗次郎」・「山室機恵子」・「タッピング夫妻」。斎藤宗次郎:花巻の新聞書籍店主。内村鑑三の高弟のクリスチャン。宮沢家と親交し、賢治とは賛美歌やレコードを楽しんだ。山室機恵子:救世軍日本初代司令官山室軍平の妻。賢治の隣家に生まれ、廃娼運動や身売娘救済が賢治に深い感銘を与えた。タッピング夫妻:明治39〜大正6年、盛岡教会で布教。賢治もトシも聖書講義をきき、英語の指導を受けた。 賢治が抱えていた宗教は日蓮宗のそれであるが、彼の作品にはキリスト教的なものを感じていた。仏教徒の彼にそれを感じるが不思議だった。この記念館で、彼の人生の初期にキリスト教のエッセンスを振りかけた人達がいたことを知った。それで、合点がいった。となれば、彼の信仰に対する考えも変わってくる。
歴史の次は、地学。子供のときに周りから「石っこ賢ちゃん」と呼ばれていた、賢治の作品には様々な鉱石が出てくる。色や風合いなどの比喩として。彼の詩的世界を理解するにはこれら鉱物に対する知識が必要だ。恥ずかしながら、私はいくつかの鉱石を賢治の想像のものだと思っていた。まさか本当にあるとは。詩は確かな知識によるものだった。ここではそれらをビデオと展示で学習できる。このビデオが優れ物だった。教育的効果の高いもので、これを見た子供は鉱物に興味を抱くのではないだろうか。てんがんせき(天河石・アマゾナイト)、くじゃくせき、たんぱくせき、月長石(ムーンストーン)、クリソコーラ(珪孔雀石)、アズライト(藍銅鉱)、クリソプレーズ(緑玉髄)、瑠璃(ラピスラズリ)、アメジズト(紫水晶)、藍晶石、玉髄、などなど・・・。天河石なんて実在する名前だと思っていなかった。
次は化学。賢治の人生で化学は大きな位置を締めている。土壌改良などの農科学も化学知識が元になっている。「過冷却」の実験の映像をここで見るとは。
特別展示では「猫の事務所」の生原稿などを展示していた。猫の事務所という物語は官僚批判、いじめに対する賢治の視点などを見て取れる。猫の事務所の実務内容を見るとどうしても外務省的な感じがする。この展示は今年初めから始まったものだが、なんとタイムリーなのだろうか。「猫の事務所は獅子によって解散されました。」長であるライオンが実状を知り、解散させてしまう。なんとタイムリーなのだろうか。 いじめ問題の寓話と考えると、解散させるしかなかったとはなんと絶望的な結果だろうか。
賢治は国柱会という日蓮宗系の宗教団体に入れ込み、住み込みを望んで上京したほど影響を受けていた。この国柱会の入会があの石原莞爾と同じだと知ったときの衝撃は…!
宮沢賢治記念館は賢治の作品を深く味わうのにとても役立つ施設だった。3時間が経過していた。昼食を取らずに次に優先順位の高い施設、高村光太郎記念館に向かった。
台風が近づいているためか、空模様が烈しく変わり続けていた。南花巻温泉郷に向かう道を少しずれた、のどかな村にそれはあった。駐車場の目の前にある売店でお昼代わりに焼き団子を食べてから、記念館に向かった。 高村光太郎はここにある高村山荘と呼ばれる粗末な小屋で晩年の7年間を過ごした。東京のアトリエは戦災で燃え、疎開先の宮沢賢治の実家の宮沢家も空襲にあった末の自給自足生活。彫刻家としての活動が出来ない状況で、書を書き、詩を作る日々。
最初に記念館を見学した。・・・宮沢賢治記念館とのギャップにクラクラする。資料は貴重なものだが、それの見せ方や保存の仕方が稚拙だ。資料に対して部屋の大きさが狭いというのもある。花巻市は観光資源としてはここを重視していなさそうだ。資料を見て判るのは、地元の人々との交流が成されていたということ。葉書の文面などから伺い知れる。がっかりしたところもあったが、ここでのみ売っているパンフレットを購入した。館の様子を踏まえると期待できなかったのだが、これは当たりだった。
帰り道に保存されている高村山荘を観た。それは余りにも粗末な小屋だった。東京で暮らしてきた老人が7年もここで暮らしたのか。文献を読んで知ってはいたが、その実際を観るとやはり驚かされる。小屋は保存のために、2重の設備で囲われている。観るだけならばあっという間だ。思いを馳せる者でないとやはり物足りないのだろう。今回は晩夏に来たわけだが、雪の積もっているときに訪れるとまた感慨深いだろう。
ネットにアクセスするために、PHSが繋がるところまで市街に近づいた。今日も花巻まつりなので、近づきすぎるとはまる。適当な茶店に入って、メールチェックした。
今日の宿は大沢温泉[->リンク]。駐車場に車を止め、坂道を下る。ここは3つの施設がある。安くて味わいのある自炊部と藁葺き屋根の菊水館、そして近代的な山水閣。今回は、奮発して山水閣の『牡丹の間』を予約していた。かつて光太郎が愛用したと伝えられる部屋。静々と案内され、引き戸を押して入る。広い玄関に驚きながら上がるとまず10畳間。記念館で見た光太郎の書「大地麗」の写しが飾られている。部屋はこれだけではない。6畳間と3畳間がある。3畳間は茶をやるのに丁度良い感じだった。10畳間続きの板間のベランダのソファーに座れば、豊沢川が見える。川向こうは木々が生い茂っている。紅葉映える時には見事な光景に違いない。ソファーに座って、和んでいると仲居さんがやってきた。ハキハキしたまだ若い人。夕食は大体20時からにしてもらった。
夕食。お酒は地酒の純米吟醸酒「宝峰 禅」(石鳥谷)。料理は豪華だった。食べきれない程の品々。献立表があるのだが、全て書くのは躊躇われる。小鉢、前菜、吸物、造り、進肴、焼物、煮物、酢の物、止椀、水菓子。関東圏の温泉宿ではちょっと考えられない豪華さだ。驚きながら頂いた。昨日買った台焼きのおちょこで酒を頂きながら。
山水閣内にある「山水の湯」に入った。豪華に見えないけれど、実は豪華という風呂。お湯もアルカリ性単純泉なので肌がツルツル。それ以外にも3つの湯があるが、全部巡る体力はなさそう。
11時、新花巻駅の駅レンタカーでホンダの小型車をレンタル。周回バスはとても安いが機動性に欠ける。行き当たりばったりの私には車の方が都合が良かった。
今日の最初の目的地は宮沢賢治記念館。 宮沢賢治記念館はこの手の施設にしては素晴らしいものだった。賢治そのものが多面性を持っている人であることもあるが、それぞれの面を理解するための展示がなされている。賢治のセロなども展示してあった。
賢治の来歴に、関わりのあった人物の説明が加えられている。私が注目したのは「斎藤宗次郎」・「山室機恵子」・「タッピング夫妻」。斎藤宗次郎:花巻の新聞書籍店主。内村鑑三の高弟のクリスチャン。宮沢家と親交し、賢治とは賛美歌やレコードを楽しんだ。山室機恵子:救世軍日本初代司令官山室軍平の妻。賢治の隣家に生まれ、廃娼運動や身売娘救済が賢治に深い感銘を与えた。タッピング夫妻:明治39〜大正6年、盛岡教会で布教。賢治もトシも聖書講義をきき、英語の指導を受けた。 賢治が抱えていた宗教は日蓮宗のそれであるが、彼の作品にはキリスト教的なものを感じていた。仏教徒の彼にそれを感じるが不思議だった。この記念館で、彼の人生の初期にキリスト教のエッセンスを振りかけた人達がいたことを知った。それで、合点がいった。となれば、彼の信仰に対する考えも変わってくる。
歴史の次は、地学。子供のときに周りから「石っこ賢ちゃん」と呼ばれていた、賢治の作品には様々な鉱石が出てくる。色や風合いなどの比喩として。彼の詩的世界を理解するにはこれら鉱物に対する知識が必要だ。恥ずかしながら、私はいくつかの鉱石を賢治の想像のものだと思っていた。まさか本当にあるとは。詩は確かな知識によるものだった。ここではそれらをビデオと展示で学習できる。このビデオが優れ物だった。教育的効果の高いもので、これを見た子供は鉱物に興味を抱くのではないだろうか。てんがんせき(天河石・アマゾナイト)、くじゃくせき、たんぱくせき、月長石(ムーンストーン)、クリソコーラ(珪孔雀石)、アズライト(藍銅鉱)、クリソプレーズ(緑玉髄)、瑠璃(ラピスラズリ)、アメジズト(紫水晶)、藍晶石、玉髄、などなど・・・。天河石なんて実在する名前だと思っていなかった。
次は化学。賢治の人生で化学は大きな位置を締めている。土壌改良などの農科学も化学知識が元になっている。「過冷却」の実験の映像をここで見るとは。
特別展示では「猫の事務所」の生原稿などを展示していた。猫の事務所という物語は官僚批判、いじめに対する賢治の視点などを見て取れる。猫の事務所の実務内容を見るとどうしても外務省的な感じがする。この展示は今年初めから始まったものだが、なんとタイムリーなのだろうか。「猫の事務所は獅子によって解散されました。」長であるライオンが実状を知り、解散させてしまう。なんとタイムリーなのだろうか。 いじめ問題の寓話と考えると、解散させるしかなかったとはなんと絶望的な結果だろうか。
賢治は国柱会という日蓮宗系の宗教団体に入れ込み、住み込みを望んで上京したほど影響を受けていた。この国柱会の入会があの石原莞爾と同じだと知ったときの衝撃は…!
宮沢賢治記念館は賢治の作品を深く味わうのにとても役立つ施設だった。3時間が経過していた。昼食を取らずに次に優先順位の高い施設、高村光太郎記念館に向かった。
台風が近づいているためか、空模様が烈しく変わり続けていた。南花巻温泉郷に向かう道を少しずれた、のどかな村にそれはあった。駐車場の目の前にある売店でお昼代わりに焼き団子を食べてから、記念館に向かった。 高村光太郎はここにある高村山荘と呼ばれる粗末な小屋で晩年の7年間を過ごした。東京のアトリエは戦災で燃え、疎開先の宮沢賢治の実家の宮沢家も空襲にあった末の自給自足生活。彫刻家としての活動が出来ない状況で、書を書き、詩を作る日々。
最初に記念館を見学した。・・・宮沢賢治記念館とのギャップにクラクラする。資料は貴重なものだが、それの見せ方や保存の仕方が稚拙だ。資料に対して部屋の大きさが狭いというのもある。花巻市は観光資源としてはここを重視していなさそうだ。資料を見て判るのは、地元の人々との交流が成されていたということ。葉書の文面などから伺い知れる。がっかりしたところもあったが、ここでのみ売っているパンフレットを購入した。館の様子を踏まえると期待できなかったのだが、これは当たりだった。
帰り道に保存されている高村山荘を観た。それは余りにも粗末な小屋だった。東京で暮らしてきた老人が7年もここで暮らしたのか。文献を読んで知ってはいたが、その実際を観るとやはり驚かされる。小屋は保存のために、2重の設備で囲われている。観るだけならばあっという間だ。思いを馳せる者でないとやはり物足りないのだろう。今回は晩夏に来たわけだが、雪の積もっているときに訪れるとまた感慨深いだろう。
ネットにアクセスするために、PHSが繋がるところまで市街に近づいた。今日も花巻まつりなので、近づきすぎるとはまる。適当な茶店に入って、メールチェックした。
今日の宿は大沢温泉[->リンク]。駐車場に車を止め、坂道を下る。ここは3つの施設がある。安くて味わいのある自炊部と藁葺き屋根の菊水館、そして近代的な山水閣。今回は、奮発して山水閣の『牡丹の間』を予約していた。かつて光太郎が愛用したと伝えられる部屋。静々と案内され、引き戸を押して入る。広い玄関に驚きながら上がるとまず10畳間。記念館で見た光太郎の書「大地麗」の写しが飾られている。部屋はこれだけではない。6畳間と3畳間がある。3畳間は茶をやるのに丁度良い感じだった。10畳間続きの板間のベランダのソファーに座れば、豊沢川が見える。川向こうは木々が生い茂っている。紅葉映える時には見事な光景に違いない。ソファーに座って、和んでいると仲居さんがやってきた。ハキハキしたまだ若い人。夕食は大体20時からにしてもらった。
夕食。お酒は地酒の純米吟醸酒「宝峰 禅」(石鳥谷)。料理は豪華だった。食べきれない程の品々。献立表があるのだが、全て書くのは躊躇われる。小鉢、前菜、吸物、造り、進肴、焼物、煮物、酢の物、止椀、水菓子。関東圏の温泉宿ではちょっと考えられない豪華さだ。驚きながら頂いた。昨日買った台焼きのおちょこで酒を頂きながら。
山水閣内にある「山水の湯」に入った。豪華に見えないけれど、実は豪華という風呂。お湯もアルカリ性単純泉なので肌がツルツル。それ以外にも3つの湯があるが、全部巡る体力はなさそう。
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