読書。V・E・フランクル「制約されざる人間」第3章 死の運命の問題。
 精神の不死性を語る。「神がいないとは言えない」という否定神学の論法を借りて「精神的人格は死すべきものとは言えない」という論理で。我々は他者の精神的人格を「今この瞬間の」ものとして捉えている訳ではない。いつも感覚的印象と意識内容を、そして時空を越えて「ある」ところのものを把握し承認している。だから私は亡き祖父母や、19歳で若年性悪性腫瘍で私の目の前を去った同級生の墓前でその人の人格に語りかけることが出来る。そういう意味で精神的人格は不死なのだ。その人の精神は浮かび上がってくる。追想するという呪術によって。
 だが、思い出す人がいなかったら、いなくなったらどうだろう。忘れさられることもある。それどころか、悠久の時の流れの先に人類は滅びているかも知れない。しかし、人類の滅亡を語ることができるならば、滅亡した人類について語る異性人の出現だって語ることができる。彼らが人類について語るかもしれない。あの果敢な女性SF作家ジェームズ・ティプトリー・ジュニアの「たった1つの冴えたやりかた」のように。(この短編は短編集の1つとして読むべきものだと思う。短編集内のそれぞれの物語は「過去」の史料として存在している。ここに作者の人生観などを感じる)
 ここで「どうせいつか人類が滅びるんだ。−>人生は空しい。」というニヒリズムは安易で短絡的な思考として否定される。彼は人知レベルの思考であるからだ。それはニュートン力学の知識だけで、相対論や量子論を知らないで宇宙を語るのと同じ事。

 今、現在の全ての出来事は「過去」になる。 過去はRAMではなく、ROMだ。我々は今、この瞬間、この瞬間に二度と書き換えることの出来ないROMに自らの出来事を修正不可能な記録として焼き続けている。変わることのない作品を生み出し続けている。この「過去」という作品は本人が死したとしても、舞台から消え去ったとしてもあり続ける。この永遠に残される作品群が人の「生きる意味」を保証する。どんなに酷い状況でも、例えすでに無能力に成り果てたとしても、死の直前の瞬間ですら人は「作品」を生み出しているのだから

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