いぬもあるけば・・・「同窓会」
2001年11月17日 前橋駅で親に会い、荷物を預かって貰ってから私は同窓会の会場に向かった。ちょっと地図を見誤って、市街地を少し彷徨った。大学に進学するまで、この街の商店街が私の経済活動の中心だった。あれから○年。郊外型店舗の増大で寂しい商店街になっていた。私がよく通っていた本屋があったデパートは既にない。当時としてはちょっと変った本屋でサイン会に湖川友謙氏を呼んだりしていた。ジロン・アモスなどのネジ目キャラを描いてもらった。店員さんと馴染みになっていた縁で、サイン会後の談話の席に招かれ、湖川氏に将来の夢を聞かれて、大言壮語を吐いたことが思い出される。
思い出に浸りながら、ようやく目的の居酒屋に付いた。実家から最も近い同窓生が二人いた。会うのは何年ぶりだろう。中学時代、同じクラスになったことがなかった事もあって、卒業以来ほとんど会っていない気がする。それでも、お互い、誰が誰だか判らなくなるほど変ったわけでもないから「ようっ!」と声を掛けて会話することができた。この二人に会えたことで、同窓会に参加した主目的の1つは達成されたようなものだ。
私が横浜から駆けつけたのは、ただ懐かしい人に会えるからだけではなかった。もちろんそれも重要だが、戦略目的は「失われつつある地縁の回復」にある。故郷が故郷として機能するには馴染みの自然や自分の居場所の存在だけではない、地域社会との持続的な関係が必要だ。都会の孤立よりも田舎の孤立の方が遥かに恐ろしい。一度失った地縁は回復させることは難しい。私の故郷に措ける地縁はかなり細く、薄いものになっていた。近い将来に戻る予定があるわけではない。それどころか、定住先が他県である確率の方が遥かに大きい。私個人にとっては地縁回復の緊急度は高くない。私個人だけならば。
「遠くの親戚より近くの他人」という言葉は二人称的にも発せられる。親に取って私は現状「遠くの親戚」的存在でしかない。それを認識した上で私が取れる手はなんだろうか?同窓の友人には結婚して、居を構え、消防団などの地域活動のメンバーとなっているものも多くいる。彼らに私の存在をアピールすることで、「私の実家」の存在を頭に留めてもらえるのではないだろうか?「老夫婦が暮らしている」ではなく「○○の親が暮らしている」という認識の強度を強めるためにはリアルに接した方がよい。故郷を離れて地元の催しに参加出来ない私にとって、同窓会はまたとない機会だ。「わざわざやってきたんだ?!」と声を掛けられる度に、半ば意識的にこう返した。「この間、父親が入院してね。割とよく帰省しているんだよ。退院後の様子を見るついでも兼ねてね。」
会はほとんどが別クラスの人だったが、1人同じクラスのA君が参加していた。彼も私がいることに驚き、また同じクラスの者がいることを喜んでいた。近状を話す中、彼から地元にいる他のメンバーの様子を知る事ができた。彼を通して、そちらとの繋がりも復旧することができた。彼が呼んだM君とも二次会で合流できたのは予想外の出来事だった。
二次会のスナックでこの同窓会の情報を教えてくれたNさんとゆっくり話ができた。お母さんになっても、(当たり前だが)彼女のパーソナリティは変っていない。声を久々に聞いて、記憶とズレがあったのにちょっと戸惑いはしたが。彼女の存在は私にとって小さなものではない。小中学生時に影響を与えられたと考えている。彼女が転校してきた頃の1シーンが、おそらく相当歪んだり作られたりしているのだろうが、記憶にある。そして、あの奇妙でかつ面白かった部活の思い出もまた。
「見知らぬ人がほとんどだったらどうしよう」と戦々恐々としての参加だったが、楽しく得るものが多かった。
思い出に浸りながら、ようやく目的の居酒屋に付いた。実家から最も近い同窓生が二人いた。会うのは何年ぶりだろう。中学時代、同じクラスになったことがなかった事もあって、卒業以来ほとんど会っていない気がする。それでも、お互い、誰が誰だか判らなくなるほど変ったわけでもないから「ようっ!」と声を掛けて会話することができた。この二人に会えたことで、同窓会に参加した主目的の1つは達成されたようなものだ。
私が横浜から駆けつけたのは、ただ懐かしい人に会えるからだけではなかった。もちろんそれも重要だが、戦略目的は「失われつつある地縁の回復」にある。故郷が故郷として機能するには馴染みの自然や自分の居場所の存在だけではない、地域社会との持続的な関係が必要だ。都会の孤立よりも田舎の孤立の方が遥かに恐ろしい。一度失った地縁は回復させることは難しい。私の故郷に措ける地縁はかなり細く、薄いものになっていた。近い将来に戻る予定があるわけではない。それどころか、定住先が他県である確率の方が遥かに大きい。私個人にとっては地縁回復の緊急度は高くない。私個人だけならば。
「遠くの親戚より近くの他人」という言葉は二人称的にも発せられる。親に取って私は現状「遠くの親戚」的存在でしかない。それを認識した上で私が取れる手はなんだろうか?同窓の友人には結婚して、居を構え、消防団などの地域活動のメンバーとなっているものも多くいる。彼らに私の存在をアピールすることで、「私の実家」の存在を頭に留めてもらえるのではないだろうか?「老夫婦が暮らしている」ではなく「○○の親が暮らしている」という認識の強度を強めるためにはリアルに接した方がよい。故郷を離れて地元の催しに参加出来ない私にとって、同窓会はまたとない機会だ。「わざわざやってきたんだ?!」と声を掛けられる度に、半ば意識的にこう返した。「この間、父親が入院してね。割とよく帰省しているんだよ。退院後の様子を見るついでも兼ねてね。」
会はほとんどが別クラスの人だったが、1人同じクラスのA君が参加していた。彼も私がいることに驚き、また同じクラスの者がいることを喜んでいた。近状を話す中、彼から地元にいる他のメンバーの様子を知る事ができた。彼を通して、そちらとの繋がりも復旧することができた。彼が呼んだM君とも二次会で合流できたのは予想外の出来事だった。
二次会のスナックでこの同窓会の情報を教えてくれたNさんとゆっくり話ができた。お母さんになっても、(当たり前だが)彼女のパーソナリティは変っていない。声を久々に聞いて、記憶とズレがあったのにちょっと戸惑いはしたが。彼女の存在は私にとって小さなものではない。小中学生時に影響を与えられたと考えている。彼女が転校してきた頃の1シーンが、おそらく相当歪んだり作られたりしているのだろうが、記憶にある。そして、あの奇妙でかつ面白かった部活の思い出もまた。
「見知らぬ人がほとんどだったらどうしよう」と戦々恐々としての参加だったが、楽しく得るものが多かった。
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