「森田療法入門 田代信維 著 創元社 刊」読了。
 以前から精神療法に興味があったので色々な療法に関する知識を得ていた。が、この森田療法に関しては療法名に個人名が付いている点に胡散臭さを感じて間を置いていた。手にしやすい印象を与える書籍に出会わなかったこともある。もし書籍名がもっと思わせぶりなタイトルだったら読まなかったかもしれない。滅多に使わない小さな本屋で何気なく、悪い期待を胸に冷やかし気分で購入したのだった。

 序を読んだだけで、私がかなり激しい勘違いをしていたことに気がついた。どうやら私も悪しき日本人コンプレックスの僕だったようだ。森田療法の考え方は私がよく読んでいる「エッセーのようなもの」が語っているものに繋がるもので、よく理解できるものだった。
 序にある一文がこの療法の骨子を表している。
 「森田療法は、その治療目標を『あるがまま』といい、治療技法も『症状を不問』にし、作業だけをさせているが、それでいて治療集結は『治らずして治る』という。」
 これだけ読むと、非常に胡散臭い。まるで禅の言葉のようだ。だが意味する所は頷ける。用は「頑張るな」「こだわるな」ということだ。「こだわり」という否定語が不思議なことに肯定語になってしまった現代では無闇やたらと拘る風潮がある。そういう精神土壌が人を追いつめた結果・・・と評論家ぶっても仕方ないか(苦笑)。
 文中で森田とV・E・フランクルとを比較をしている。比較できるということは似た点があるということだ。似ている点は「認識を変えて問題を無化する」点。同じ山を違う登山道で登るようなものか。フランクルは1種の「ユーモア」で問題を乗り越え、森田は一種の「諦念」、後ろ向きではなく前のめりに倒れるそれで気がつくと前に進んでいることに気が付かせる。
 著者が森田の考えを理解するために山村雄一氏の3つの呪文を挙げている。
  1.しゃーないな。
  2.いろいろあらーな。
  3.なるようにならーな。
 危機が訪れたとき、この呪文を唱えるといい。抱えている問題が大したことないことに、嬉しくもまた残念ながら気がつくだろう。問題に沈むのではなく、問題と付き合う。問題と共に生きるのも一興。問題を抱えてもどうにかやってゆけることに気が付けば問題は恐くないし、生きていく自信も湧いてくる。そのとき、問題はもう問題ではなくなっているのだ。
 森田療法はこの考えで人を自立への道に近づけさせる療法であった。受け入れ療法、承認療法とでも言おうか・・・

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