「キェルケゴールと親鸞 ― 宗教的真理の伝達者たち」を読了。中々面白かった。キェルケゴールと親鸞をどう結び付けるのかと思ったら、まず筆者が学生時代に専攻したキェルケゴールの著作から、キェルケゴールが認識していた真理とそれの伝達可能性及び可能な伝達方法について説明し、次に親鸞が真理に対し似たような考えをもって行動していたことを明らかにし、この二人の宗教者が奏でる響きから宗教的真理の伝達とは何なのかを推測させる内容だった。
 親鸞に関しては、歴史の教科書で知っている知識ぐらいしか知らなかったので、最初キェルケゴールとどう結びつくのか想像できなかった。それなので、そうとう我田引水にキェルケゴールを親鸞側に持ってくるものなのではと身構えていた。もちろん親鸞に関わる文献を解釈するという面があるので我田引水的なものはあったが、それを差し引いても興味深い内容だった。
 この展開からするとキェルケゴールの言う「キリスト者」と同様に、親鸞の考える「真の仏弟子」は非常にまれな存在ということになるのかもしれない。そうなると大勢の「聖職者」という存在は何なのだろう? 贖罪符と戒名は似たようなものか?どちらも『宗教的真理』から最も離れたところにある。生者の気休め。

・・・とまれ、こんな事を書くこと自体が非真理だ。判っている。それだけは判っている。

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