リスクセンス読了。なかなか面白かった。
結論からすると、「リスク」という概念は非常に西洋的、合理主義的な文化基盤の元で育まれたものであることがわかった。そういう点で日本人にとって、リスクセンスを磨くというのは実際には中々難しいと考えられる。自分に関わるあらゆる項目の情報を集め、それが自分にとってどれだけリスクのあるものかどうかを判断することを日々要求される。
 中盤付近の記述はリスクセンスという話とはちょっとズレた例のような気がして釈然としないものがあったが、別個の話として読むと面白い。いかにもアメリカ的というか。個々人が「何がリスクであるか」を判定するには、個々人が「何を重視し、何を恐れているか」という価値観が前提にある。この本を読んでアメリカ人が何を恐れているのかが垣間見える。
 「健康こそ、最後の宗教である」と言ったのは誰だったか。アメリカ人の健康に対する思いはそうとう深いようだ。それは反健康的なものに対するヒステリックな対応や健康促進商品の開発と普及に見られる。いわゆる「ヘルシー志向」。ヘルシーであることに強迫的になっているのでは?と疑いたくなるような商品を通信販売番組から見て取れる。そして、そのように仕向ける情報操作も。
 80年代にエイラーという植物物成長調整剤に対する報道とそれに伴って引き起こされた騒動はパニックと呼べるものだ。よくアメリカは合理主義の国で云々という話があるが、この騒動や赤狩りなどの近現代のアメリカ国内の事件を振り替えるととても合理的な国とは言えない。赤狩りはともかく、エイラー不安は80年代、つい最近の話だ。
この騒動が起こった原因は少ない情報とそれを背景にした情報操作、そして不安を煽る情報を集中的に繰り返し取り上げるマスコミにある。情報の少なさは操作された情報を検討させず、不安にさせて憶測を生む。憶測もマスコミが取り上げることで「事実」になり、人々の不安は更に大きくなる。正帰還だ。環境保護団体が情報操作して放映した番組によってエイラーは最も発癌性の高い、それこそ微量でも癌になる薬品だというイメージを作り上げた結果、国中がパニックとなり、エイラーが使われた可能性のある食品のほとんどが処分されたという。はて?どこかで聞いたことがあるような話だ。情報に躍らされるという点では日本もアメリカと同じ・・・いや、もっとお粗末か。

 あるものが危険だという情報に対して、我々はそのリスクを比較検討しなければならない。その気になれば、どんなものだって危険なもの、危険な行為となる。また、危険だと騒がれているものも他のもの比べれば逆にリスクは小さなものかもしれない。
 環境ホルモンについて近年色々騒がれているが、この問題に対しては私はかなりシニカルに捉えている。今更、何を言っているのだと。昭和50年代頃に合成洗剤や農薬に対して、その危険性を訴える運動があった。不思議に思うのはあれほど盛り上がっていた運動も急速に下火になり、まるで「その問題は解決された」かの様にマスコミは取り上げなくなってしまった。では、当時の問題は本当に解決されたのだろうか?

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