綺朔ちいこさんから届いたDMに誘われて個展を見に行く予定だったが、今日は行けなかった。
 夜、ここ最近の彼女の活動がどういうものかを確認するためにgoogleで検索。半年前にイベントに参加したらしい。SOMA組という一人芝居の小劇団のチラシに彼女の絵が使われていたが、それについては引っかからなかった。ともかく個展としては久々の様だ。
 検索した中にあった、ある日記をつい読み込んでしまった。知人が急性白血病で亡くなった話。だるさを訴えて病院に行き、即入院。しばらくして脳内出血で意識不明になり、半月後に亡くなったらしい。あっという間だ。
 筆者は知人の死期が近いことと奥さんが子供達に事実を伝えていないことを知り、父親が死ぬ前に子供達に知らせる事を助言しようかどうか悩んでいた。結局、間接的な形で助言は成された。
 私が読み込んだ理由は「急性白血病による急な死」そのものではなかった。残される人達の動向、ここでは幼い子供達に父親の死に対面させるという選択とその選択を行った判断材料に打たれるものがあった。
 筆者は子供達に事実を伝えていないということが気に掛かり、そしてある本のことを思い出した。エリザベス・キューブラー・ロスの「「死ぬ瞬間」と臨死体験」。「子供達に死ぬ行く父親と対面させて、父親の死を受け入れさせたほうがよいのでは」と思った。だが、それを直接伝えるほどの信念はない。それが本当に正しいことなのか。読んでいる時には納得した気になっていても、いざというときには抵抗があるものだ。逆に「本に書いてあることだから」と悩みもせずに行動してしまう人の方が無神経に思う。判断を他人に委ねたはしたが、筆者の行動が元になって、子供達は病院に駆け付けられた。

 私はエリザベス・キューブラー・ロスの名前は知っていたが、著書は読んだことはない。どうもトランスジェンダー心理学的な臭いを感じて(それは日本語版のタイトルのセンスの無さにも由来していたが)、敬遠していた。今回、この日記の中でハイパーリンクリンクされた抜粋を読んだのが初めてかもしれない。全てがヤバイのではない。注意して読めば、宝を見つけることができる。罠もあるけど。
 少なくとも「死は重要なものであり、それを無視してはならない。」「死に行く者と残される者の両者共に、死を受け入れる機会を奪うことは残酷なことである」という考えには同意する。

 しばらく前から精神が揺れていることもあって、敏感になっている。抜粋を読んでいるうちに、思い出したことがあった。祖父母や伯父の葬儀で殆ど泣くことがなかった。何故に泣かなかった・・・いや、泣けなかったのか・・・。それが判らなかった。色々な理由が平行・交錯して存在しているのだろうが、その中の1つに「死に行く人の世話をする機会がなかった」ことがあったのではないだろうか。この『世話』という言葉は日常語としてのイメージがこびりついていて術語としては不適当かもしれない。ここでは行為そのものではなく、気遣いにアクセントを置きたいので『ケア』という英語を使った方がいいか。相互作用。「死に行く人の世話をする」だけではなく「死に行く人に世話される」こと。
 謎の片鱗が解けてきた。多分、私はまだ受け入れられていないのだ。彼らの死を。そう思うと涙が出てきた。


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