口笛吹いて〜、空き地に行った〜、知らない子がやってきて〜♪

 「カウンセリング・幻想と現実 上巻 理論と社会 日本社会臨床学会編 現代書館」を読み始めている。
 これを読んで、カウンセリングに対しての知識だけは人一倍ある自分が何故実際にカウンセリングに掛かる気になれないのか、その技法と精神を日常に活かす気になれないのか判ってしまった。

 ところで、日本社会臨床学会。この名前、ちょっと考えると不思議な名前なことに気が付く。これだけでは何の学会なのか判らないからだ。何回か別の学会から分離してきた為に付けられた。意味を分かり易くするならば、「日本の、社会学の観点を持って、臨床心理学を学ぶ者の会」か。
 「『こころの専門家』とは何か?それは本当に必要なのか?」
 世の流れを見るに、「『こころ』が大切。大切に扱うためには専門家の視点が必要。」という論法から、カウンセラーの認定と配備が声だかに唱えられ、その呪文の効果は現われだしている。彼らはこれに疑問を呈する。
 『こころ』が大切という考えには心理還元主義がある。社会的な問題として捉えるものを、一個人の心理の問題に還元し矮小化させる。
 例えば、「登校拒否は登校拒否児の心理発達途中に起こる。」と定義してみる。すると、「そういう子供も適正に発達すれば問題は解決される」という論理が成り立つ。周囲はその子の適正な発達を支援しなければならないという方針が出てくる。この論法へのカウンターとして、「登校拒否の原因は個人に起因するものなのか?」というのが出てくる。更に「登校拒否は悪いことなのか?その理由は?」「登校拒否ではなく、学校制度拒否として捉えることは可能か?」など。
 「本当に必要なのか?」というのは、資格制度の問題に絡む。国によって権威付けられた資格者によって「こころ」を診断される。専門家の誕生は、それ以外の人々の立場を貶め、責任感を奪う。「政治は政治屋に任せておけばいい」というのと同じ様に。しかし、専門家が危ういのを我々は様々なニュースで知ってしまった。政治、経済、医療、外交、生産、流通、教育・・・。臨床心理士という資格が資格取得者の安定した職業と精神科医などから虐げられてきた地位の向上、そして権威を保証するためのものだとしたら、「誰のために必要なのか?」という問いの答えは・・・

 閑話休題。カウンセリングに対する違和感に話を戻す。カウンセリングという言葉を始めて知ったのは、中学生の時だったろうか?暗黒の思春期。大人に対する不信感と嫌悪感が渦巻く。信じたいけれども信じられない。そして、そういう「オトナ」に自分も変わってしまうことに対する不安。・・・など『14歳』を中心としたこの時期。
 「管理」が嫌だった。モノと扱われて管理されることが。「管理」を感じさせるものに対するセンサーの感度は高かった。そして、センサーは「カウンセリング」というものに対し、警鐘を鳴らした。胡散臭さを感じたのだ。何かに取り込まれるような。
 
 日本のカウンセリング、特に学校カウンセリングと呼ばれるものはロジャーズの来談者中心療法の思想をベースにして実施されている。これは「語る人物(問題生徒)の『成長』を信じ、その言葉を傾聴し、共感的にサポートし、自己治癒・自己成長・自己実現をはかる」というスタイル。言葉だけを見れば、素晴らしい。が、実際に出現するカウンセラーと生徒との関係は「対等に見える上下関係、相手を尊重する姿を持った、見えにくい権力関係」になっている。そして、それをカウンセラー自身が自覚していない。
 このカウンセリングが持つ「暴力性」は「自由に決めよ、但し周囲に望まれる形で」という暗黙のメッセージにある。そして、このメッセージを受け入れた人は「周囲に望まれる形で」という指示を内在化する。『自由』に振る舞う代償に。

 江戸幕府が檀家制度を作ることで庶民の精神をも管理してきた歴史との共通点。
 荒魂、和魂の思想。怒りを静めることが優先され、事の解決は放って置かれる。
 怒りを静めるとは、怒りのエネルギーの無力化。怒りを生きる力に直結するものと捉えると、怒りを否定する社会は、生きることを否定する社会とも言える。無力化された怒りを恨みという。現代日本は期せずして、平安時代と同じ精神構造の、見えない「怨恨社会」になっている。溢れ出た恨みを封印するシステム。
 
 
 「こおしてがっこうにもんだいじはひとりもいなくなりました。よかたです。」
 
  口笛吹いて〜、空き地に行った〜、知らない子はもう『居ない』〜♪

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