あるいは、いぬもあるけば・・・「幻想と現実 〜現実篇〜」

 体調不良で・・・マイッタ(苦)。

 前回、かなり臨床心理士という資格に対し、毒のあるものを書いたが、それなりに資格の必要性を理解もしている。徒に薬を使ったり、拘束したりする精神科医の姿勢に疑念を感じて異を唱えても病院システムのヒエラルキーから「たかが一心理職のくせに」と相手にされないことが往々にしてあること、また怪しい新興宗教なみのイカガワシイ診療所の存在が心理療法を貶める可能性など、臨床心理学に携わる人達が感じる辛さや歯がゆさ。「薬物療法以外にも患者にとってよい治療法があるはず。医師の資格がないので薬物は取り扱えないが、カウンセリングで患者の苦しみを癒すことができる。」ロボトミー手術や限界量の薬物で廃人同様にして隔離するよりも遥かに素晴らしい。
 が、その辛さや思いはそう単純に免罪符にはならない。治療行為そのものが持つ危険性や前提としている思想が持つ偏り・欺瞞を知ろうとしないのは、副作用を知ろうとせずに薬を処方するのと同じぐらい一人よがりだ。
 『成長』とは何か?『健康』とは何か?そして『健全な成長』とは何か?
 「健全な」という、響きの良い言葉の裏に潜む差別意識。「不健全」と括られるものを思い起こすと、それらはマイノリティなものであることに気が付く。不用意に健全さを求めることは、差別意識を植え付ける。健康ブームが不健康なものを抑圧し、抗菌ブームが「汚れ」に関わる物、人に対してヒステリックな対応を行わせているように。
 『健全な成長』・・・前回のを踏まえれて『適応、周囲に望まれる形で』と定義してみる。
 
 本の第二部では、カウンセリングの現代社会の中での位置づけと機能について検討している。
 管理者が許容する範囲内の行動選択の自由を保証した上での管理技法。「いまどこサービス」との類似性。子供や徘徊者の行動の自由を認めつつ、危険なところに行かないように監視するためのネットワーク。だが、それは何故そこに行きたいのかを理解することはできない。いや、しようとはしない。共感はしても、同意してはいけない。リスク最小の原則。進歩はあるが、進化はない。
 生涯学習社会との関連。一見、ばら色。でも、「生涯、学習し続けることを強いる社会」と読み替えるとどうか?マスコミが取り上げる生涯学習社会の姿を説明するイメージは、いつまでも若くて元気でボケ知らずな老人の映像。「よい」イメージを定義する作用の反作用は「わるい」イメージの定義。今後、老人の悩みを聞くカウンセラーが必要とされるだろう予感。
 「本当の自分探し」「癒し」などの『こころの商品化』の流れ。ファーストフードや航空会社で進められるマニュアルではない「本当の笑顔」、看護師に求められる「人を思いやるこころ」。職場で要求される『感情労働』。そして、『出会いの商品化』・・・これを資本主義の円熟というのだろうか?あらゆるものが商品となってゆく。

 改めて確認するが、この本はカウンセリングを行っている人達自身によって書かれている本である。現実を把握している人達の呟きと痛みと哀しみがここにある。そして、誠実さも。
 『自分に向かう知は、自己言及的にならざるをえない。複雑なことだし不安も覚えるが、私達は逃げることができない。こうした自己言及は息を止めて集中する苦しい思考である。だからこそ、ある意味では幸いにして、経験的にはこの自己言及はどこかで必ず停止する。だが人々が、認識を打ち切って実践を始める場所は確実に移動している。何も考えずに実践することはもうできない。勿論カウンセリングも例外ではない。認識することは疑うことであり、実践することは信じることである。私達は疑いつつ信じ、信じつつ疑うしかない。疑うことも信じることも「戦略的」と言わざるをえない状況に私達はいる。ルソーの「高潔な野人」から私達はあまりにも隔たっている。私達にできることは安易な妥協をせずに自己反省を続けることである。そして、にもかかわらず実践を止めないことである。』(石川 准)

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