今日のゼミの資料は先生が先日参加した一般公開パネルディスカッション「茶の湯の未来」の中のチラシ。
 「茶道具とはどういうものか?」と根本に立ち戻って定義しなおす試みが観られる。
 利休の頃の茶道具は「見出されたもの」だった。名物として初めから存在するものではなく、人によって能動的に発見されたもの。一般の中から抜き出すイメージ。そこには選別行為がある。選別・・・つまりそのためのパラメータが存在していた。それは製作年や物の真贋でもなく、物自体がもつ「形(なり)」「比(ころ)」「様子(ようす)」。特に重視されたのが比。つまり、使い易い大きさ。茶を立てる道具として使い易い大きさの焼き物を色々ある中からひょうと拾い上げて使った・・・というイメージ。

 スライド上映の最初は観応2年(1351)の「慕帰絵」。初期の茶道具が見受けられる。
灰かつぎ天目の写真。名物を示すパラメータ「手形」「なだれ」「糸きり」が見て取れる。何故、これがパラメータなのか。写真をみると理解できる。その不完全性と偶然性に面白味を観たのだろう。つまり、「良いもの=面白いもの」なのだ。上映された「やぶれ袋」は見飽きない面白味があった。
 湯木美術館の「館蔵りくえすと展」で重文『みほつくし茄子』が観られる。この美術館は日本料理「吉兆」の創業者・湯木貞一さんが収集したコレクションが収蔵・展示されている美術館。10/29〜11/5辺りだという。思ったより展示期間が短い。
 京都国立博物館の特別展覧会「日本人と茶 −その歴史・その美意識−」が開催されている。なかなか面白いという話だ。

 墨跡は「字数、行数、配置」が命だった。その文の内容や書いた人ではなく。
 面白味を感じるのにパターンがあったというのは興味深い。パターン、つまり「型」だ。そこから、武術も含めた伝統文化が持つ「型」の意味に思考が飛ぶ。
 「型」重視の思想は今も現存している。高尚な例を挙げても仕方ない。最も卑近なものに真実がある。
    
    『萌え』
 

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