いぬもあるけば・・・「ゆうじ」
2003年5月14日 有事法制関係のニュースが流れている。「有事」をすぐに戦争状態に直結すると却って、そのイメージが掴み難くなる。
PBMで鍛えた妄想力で想像すれば、新聞紙面から「有事」とはどんなものか推測できる。簡単に言えば、今の日本は見方を変えれば「有事」だという見方も出来る。まぁ、そこまで行かなくてもそれに近い状況だ。市場経済、財政、健康保険、年金などは余りに長期に渡って「非常事態」なので、逆に「非常事態」であるという感覚がなくなっている。内乱で生まれてから一度も長期の平和を知らない人達が、「戦時」という感覚がなくなっているのと同様に。幸い、日本では直接的に人が死ぬ可能性のある事態は発生していないだけ。
が、例えばイラク攻撃に賛意したことでいつテロが発生するとも限らない。次の瞬間、何が起こるか判らない「予測不能の時代」。
また、どんな冗談も本当にならないとは限らない。昨日のフィクションが今日のノンフィクションに。昨日のノンフィクションが今日のフィクションに。「バーチャル/リアルの時代」。
明日の予測が不能で、自分が認識できる「世界」に自信がないのは辛い。その辛さを忘れるために、思考を放棄する。自ら考えることを止め、近視的に物事を捉え、泡のような「今」という瞬間にのみ生きる。それは‥‥『動物としての生』。それは個人だけでなく、社会全体にも広がっている。
閑話休題。
非常事態となった場合、どうなるのかをSARS対策で考える。有事法制を取り上げるマスコミが話題にした基本的人権のあくなき尊重をこれに当てはめるとどうなるだろう。このような思考実験はPBM的ではあるが。
感染を抑えるには、SARS患者と感染の疑いのある人に対する強制隔離、強制収容がどうしても必要なのは、中国や台湾の状況を見て判る。台湾では自宅を出ないように要請されている人が外出してしまうので、TV電話を引き入れて監視するという具合だ。罰金を取るということは、外出行為は違法と判断していることになる。
さて、そのように外出を希望する人の基本的人権はどれほど尊重されているといえるだろうか?同様の事態が日本で生じた場合、どうなるのだろう。これは只の思考実験ではない。来週にも現実にありえる状況だ。バーチャルではなく、リアル。
「強制隔離や強制収容は仕方がない」ならば、武力攻撃時の強制避難や強制収用も同様に「仕方がない」という事になる。
「有事」の定義も国会やマスコミで取り上げられている問題だ。武力攻撃された場合だけでなく、武力攻撃されると予想される場合や武力攻撃される可能性がある場合の対処も触れられていて、これに危機感を感じる人がいる。
これを考えるよい事例が今現在ある。マスコミが視聴率という甘美な食べ物に惑わされて狂乱的に電波を使用しているところの、「白装束の一団」。彼らに対する必要以上に危険視する取材が、取るに足らない犯罪をネタにした全国的な強制捜査に踏み切らせた。
何故、強制捜査に踏み切ったのか。「危険行為を行う『可能性』があった」からだ。
鸚鵡の影に怯えて、白装束の集団の施設に押し入り、名簿などの書類を押収した。このことに対するマスコミのコメントを、先の「可能性」を踏まえて聞いたり読んだりするべきだろう。マスコミが信用ならない事が判る。いざ、天秤が傾いたら、昭和10年代の朝日新聞のような感じにならないとは言えない。
SARSと白装束の一団と有事法制。一見、係わり合いのなさそうなものが繋がるのはとてもPBM的だ。だが、PBMゲーマーはそこに共通項を見つける。
「白装束」。
街全体を殺菌する映像。
白装束の集団。
化学兵器防護服。
そして社会風潮をこれらから妄想/演繹する。
外からの侵入を恐れ、拒む姿。
グローバルの振りをした「保守」。
無差別な振りをした差別。
余裕な振りをした恐怖。
それは、一日本人である私というPC/PLにも当てはまる。
私/私の中にある「拒絶」「保守」「差別」「恐怖」。
例えば、今、このタイミングで中国や台湾から輸送船で大量の難民が日本に押し寄せたら、日本人はどう対処するだろうか?
マスコミによって、北朝鮮が核弾頭を持っているという「事実」を得たら・・・「仕方がない」と呟いて何をするのだろうか?
そんな面倒なことを考えるのは嫌だ。私/私はそんな思考は「放棄」する。
PBMで鍛えた妄想力で想像すれば、新聞紙面から「有事」とはどんなものか推測できる。簡単に言えば、今の日本は見方を変えれば「有事」だという見方も出来る。まぁ、そこまで行かなくてもそれに近い状況だ。市場経済、財政、健康保険、年金などは余りに長期に渡って「非常事態」なので、逆に「非常事態」であるという感覚がなくなっている。内乱で生まれてから一度も長期の平和を知らない人達が、「戦時」という感覚がなくなっているのと同様に。幸い、日本では直接的に人が死ぬ可能性のある事態は発生していないだけ。
が、例えばイラク攻撃に賛意したことでいつテロが発生するとも限らない。次の瞬間、何が起こるか判らない「予測不能の時代」。
また、どんな冗談も本当にならないとは限らない。昨日のフィクションが今日のノンフィクションに。昨日のノンフィクションが今日のフィクションに。「バーチャル/リアルの時代」。
明日の予測が不能で、自分が認識できる「世界」に自信がないのは辛い。その辛さを忘れるために、思考を放棄する。自ら考えることを止め、近視的に物事を捉え、泡のような「今」という瞬間にのみ生きる。それは‥‥『動物としての生』。それは個人だけでなく、社会全体にも広がっている。
閑話休題。
非常事態となった場合、どうなるのかをSARS対策で考える。有事法制を取り上げるマスコミが話題にした基本的人権のあくなき尊重をこれに当てはめるとどうなるだろう。このような思考実験はPBM的ではあるが。
感染を抑えるには、SARS患者と感染の疑いのある人に対する強制隔離、強制収容がどうしても必要なのは、中国や台湾の状況を見て判る。台湾では自宅を出ないように要請されている人が外出してしまうので、TV電話を引き入れて監視するという具合だ。罰金を取るということは、外出行為は違法と判断していることになる。
さて、そのように外出を希望する人の基本的人権はどれほど尊重されているといえるだろうか?同様の事態が日本で生じた場合、どうなるのだろう。これは只の思考実験ではない。来週にも現実にありえる状況だ。バーチャルではなく、リアル。
「強制隔離や強制収容は仕方がない」ならば、武力攻撃時の強制避難や強制収用も同様に「仕方がない」という事になる。
「有事」の定義も国会やマスコミで取り上げられている問題だ。武力攻撃された場合だけでなく、武力攻撃されると予想される場合や武力攻撃される可能性がある場合の対処も触れられていて、これに危機感を感じる人がいる。
これを考えるよい事例が今現在ある。マスコミが視聴率という甘美な食べ物に惑わされて狂乱的に電波を使用しているところの、「白装束の一団」。彼らに対する必要以上に危険視する取材が、取るに足らない犯罪をネタにした全国的な強制捜査に踏み切らせた。
何故、強制捜査に踏み切ったのか。「危険行為を行う『可能性』があった」からだ。
鸚鵡の影に怯えて、白装束の集団の施設に押し入り、名簿などの書類を押収した。このことに対するマスコミのコメントを、先の「可能性」を踏まえて聞いたり読んだりするべきだろう。マスコミが信用ならない事が判る。いざ、天秤が傾いたら、昭和10年代の朝日新聞のような感じにならないとは言えない。
SARSと白装束の一団と有事法制。一見、係わり合いのなさそうなものが繋がるのはとてもPBM的だ。だが、PBMゲーマーはそこに共通項を見つける。
「白装束」。
街全体を殺菌する映像。
白装束の集団。
化学兵器防護服。
そして社会風潮をこれらから妄想/演繹する。
外からの侵入を恐れ、拒む姿。
グローバルの振りをした「保守」。
無差別な振りをした差別。
余裕な振りをした恐怖。
それは、一日本人である私というPC/PLにも当てはまる。
私/私の中にある「拒絶」「保守」「差別」「恐怖」。
例えば、今、このタイミングで中国や台湾から輸送船で大量の難民が日本に押し寄せたら、日本人はどう対処するだろうか?
マスコミによって、北朝鮮が核弾頭を持っているという「事実」を得たら・・・「仕方がない」と呟いて何をするのだろうか?
そんな面倒なことを考えるのは嫌だ。私/私はそんな思考は「放棄」する。
コメント