いぬもあるけば・・・「日本SF大会 二日目」
2003年7月20日 7時半に意識を取り戻し、朝食。昨日のパーティ会場がバイキング形式の朝食会場になっている。8時からピアノとエレキバイオリンの生演奏を供された。クラシックだけでなく、ナウシカ、ルパン三世、ラピュタ、宇宙戦艦ヤマトなども演奏された。実行委員会があらかじめスコアを渡していたようだ。優雅な朝食?
9時からの企画。何故か、そしてやぱし「ゲゲボドリンクの部屋」にいた。すずめさんからの命令電波によって。「ジェンダーSF研究会 文学とコスプレカルチャーのあいだ」(巽孝之、小谷真理、尾山ノルマ、瀧川仁子)も興味あったのだが、ヨモスエ、ゲゲボという形容詞に反応してしまう身としては仕方ない。企画開始時には10本ほどしかなかったドリンクが、ぞくぞく大勢から提供を受け膨大な数になった。Kさんは10年もののタフィボビータを提供していた。ちなみに、ここでは「賞味期限切れ」という単語はない。代わりに「ビンテージもの」という形容が与えられる。世の中にはサスケなどを大事に保管しつづけているマニアもいると言う話が・・・(かたかたかた)。この企画は、自作品や混合品などのプロトタイプは無しで、市販品のGTクラスのみの耐久レース。小さなカップにドリンクを一口ずつ分けて味見しつづける過酷なもの。そして、はじまった。(記憶抑圧により削除)・・・はぁはぁ・・・やはり恐ろしく、過酷なレースだった。何かの弾みでゲップがでると、自らがそれにダメージを喰らう・・・後遺症だ。
11時。「無銭飲食列伝−鉄人屋」(秋山瑞人)で本物の鉄人定食の完食を目指す企画は、先程の企画のダメージにより断念。参加できずに見るだけでは余り面白くない。話のネタにはなるが。ということで、「第2回 Sense of Gender賞選考発表の部屋」(小谷真理、工藤央奈、風野春樹)に。ジェンダーSF研はこのままでいいのだろうか?近いうちに閉塞していく予感。日本の作家は『政治的に幼稚』なので、ジェンダーという政治的タームを前にすると思考が停止してしまう人や暴走してしまう人、戦中の時みたいにネグレクトを決め込んだり、そもそも全く文章書きとしては信じられないくらい無知だったりするので、彼/彼女らの活動を「子供だましのお遊戯」としか把握されえず、真綿で絞め殺すような無言の圧迫に活動が空中分解してしまう可能性が高い。「家父長制的温情の込められた生暖かい目で見守りながらも黙殺」というところか。矛盾、もしくは戦術ミス。
ホテル内で大会参加者向けに特別に売られているお弁当を部屋で急いで掻き込む。お腹が一杯になると眠くなるじやないか・・・と眠ることを考えたが、時間が勿体無い。部屋を出て、中を徘徊する。
13時からの企画は「小さなお茶会 小谷真里・野阿梓」に。限定10名なので、もう締め切られているのではと思ったら、まだ枠があると言われたので参加。ところが、野阿さんが全然姿を見せない。その間、小谷さんがノートパソコンでここ最近出かけたイベントで撮影した画像を鑑賞ソフトを立ち上げて皆に見せてくれた。昨年のゆ〜こんや、アメリカで開催されている女性による女性のためのSF大会とか。海外の有名作家や教授は余りに遠く、時に故人のように認識していることがある。こうやって、アーシュラ・K・ルグィンの画像を見せてもらうことでそういう錯誤を修正することができる。他にも網状言論一行の韓国のヲタクとの交流会の映像とか。
30分遅れでの登場の野阿さんは昼食を食べていたらしい。参加者の自己紹介をしたあとは、だらだらとおしゃべり。先程、披露したSF大会の様子やあちらで仕入れた情報など。ワールドコンで始めてマスカレード(コスプレ)をした人、つまり世界で始めてコスプレをした人にあったという話も興味深かった。初めてのコスプレはスーパーマンだったらしい。 それから、「コルサール事件」についての話題でしばし盛り上がる。ゲストに尋ねたい事柄があったのだが、場にそぐわないので自粛。
15時。梶尾真治さんの朗読とお茶会に惹かれたが、最近の作品(例えば「黄泉がえり」など)を読んでいないので、参加を躊躇われ断念。代わりに「SFアニメ舞台裏〜ラーゼフォンの場合〜」(出渕祐、他)に。地上波TV放映、しかも2クールということに対し、周辺は「基地外沙汰だ。絶対、失敗する。」と警告していたらしい。初監督として手がけるには締切とか制限が地上波放映に比べればトンでもなくユルユルな『おヴぁ』が楽で失敗が少ない。最初からそんな過酷な物を手がけるなんて無謀でしかない・・・と。
出渕さんは「地上波放映でなければならなかった。でなければ、アニメを作る意味がなかった。」と。何故か。何故、地上波ではなければならないのか。それは、視聴者を考えて、受け手を考えてのこと。おヴぁを買ったり、CS放送の契約をしたりと自ら動いて見ることが出来、そしてそうする大人のファンだけを的にした作品にしたくない。地上波放送には『偶然の出会い』という要素がある。既存メディアかつ無料放送である故に。「全く放送を知らなかった、興味を抱いていなかった子供が偶々チャンネルを変えているときに出会う」というシチュエーションは、おヴぁやCS番組よりは発生確率が高いだろう。というより、おヴぁやCS番組、いやマーケティング中心主義の商品は標的以外の客層を無視することで戦力を集中する戦略を取っている。出会いは偶然ではなく、必然でなければならない。おヴぁは10歳の子供を相手にはしない。地上波放送に拘る出渕さんはスポンサーがどこであれ10歳の子供をも対象にしていた。ラーゼフォンというテクストを子供達がその時点で咀嚼するとは勿論考えていない。そうではなく、彼らの心の中にSEEDを植えられればそれでいい。いつかもう少し大人になって自分なりに理解してくれればそれでいい。受け手の可能性を信じての発信。判らないものは判らないままに。
ラーゼフォンのデザインをやわらかくしたのは、中性的なイメージを与えたかったため。ロボット物というと女性には敷居が高くなりがちだが、女性にも観てもらいたい。そのため、かなり意図的な設定や演出も加味したようだ。
何気なく聞いてしまったらそれまでだが、これらの単語を別の業界の単語に入れ替えたとき、『表現者』は誰に、何を、どのように・・・という古典的な命題について語っていることが見えてくる。
個人的ににやりとしたのは、ガイナックスの話題。劇場版の監督が急病で倒れて参加できなかったため、代わりに参加した某プロデューサーとのやりとりのなかで。「○○さんも、ガイナックスの近くに引っ越したらどうですか?目の前のマンションはまだ部屋が余っているようですよ。」・・・ククク・・・久さん(笑)。
仮眠・・・寝坊
星雲賞授賞式・パーティー
21時。
選択:「やおいパネルディスカッション」小谷真理、野田令子、ひかわ玲子、秋津京子
BLの現状。JUNEともやおいとも違う地平。
少女漫画というジャンルが健全(?)な発達を妨げられた結果、別の形で進化した。ここも『裏進化』。
その社会からの抑圧は、そのまま少女に対する性的抑圧と等価。「主体であることの否定」。
BL作家として紹介された秋津さんはしかし最近業界から離れているらしく、とんと疎くて知り合いの編集者さんに現状を教えてもらったらしい。
それによると、しばらく前までは「学園物」としてBLが主流だったのだが、「リーマン物」に移っているという。そして、ソフトな描写からハードな描写に。
「リーマン物」は三高(笑)で美形の青年が年下の普通の後輩を・・・というシチュエーションらしい。「学園物」では閉鎖された中故に権力関係はほぼ同等と言ってもいいが、「リーマン物」は片方が圧倒する。ここに現実世界の女性の生き辛さを垣間見て、陰鬱な気分になる。主客転倒もなく、力ある『攻め』からひたすら「愛」を頂戴することを願う『受け』。そんなのが受けているのか。だったら、別にBLじゃなくてもいいじゃん。
性描写の回数も多く、どうやら編集者の指示によって「30ページに1回はその手のシーンを入れる」という感じになっているらしい。野阿さんは、そこにファンクション・ノベルを見ていた。回数が増えるということは、1つのシーンの物語における強度は弱まるということだ。「量」が「質」を駆逐する。それもある意味で今のご時世に沿った物なのかもしれない。お腹一杯なのに餓えているというような。
9時からの企画。何故か、そしてやぱし「ゲゲボドリンクの部屋」にいた。すずめさんからの命令電波によって。「ジェンダーSF研究会 文学とコスプレカルチャーのあいだ」(巽孝之、小谷真理、尾山ノルマ、瀧川仁子)も興味あったのだが、ヨモスエ、ゲゲボという形容詞に反応してしまう身としては仕方ない。企画開始時には10本ほどしかなかったドリンクが、ぞくぞく大勢から提供を受け膨大な数になった。Kさんは10年もののタフィボビータを提供していた。ちなみに、ここでは「賞味期限切れ」という単語はない。代わりに「ビンテージもの」という形容が与えられる。世の中にはサスケなどを大事に保管しつづけているマニアもいると言う話が・・・(かたかたかた)。この企画は、自作品や混合品などのプロトタイプは無しで、市販品のGTクラスのみの耐久レース。小さなカップにドリンクを一口ずつ分けて味見しつづける過酷なもの。そして、はじまった。(記憶抑圧により削除)・・・はぁはぁ・・・やはり恐ろしく、過酷なレースだった。何かの弾みでゲップがでると、自らがそれにダメージを喰らう・・・後遺症だ。
11時。「無銭飲食列伝−鉄人屋」(秋山瑞人)で本物の鉄人定食の完食を目指す企画は、先程の企画のダメージにより断念。参加できずに見るだけでは余り面白くない。話のネタにはなるが。ということで、「第2回 Sense of Gender賞選考発表の部屋」(小谷真理、工藤央奈、風野春樹)に。ジェンダーSF研はこのままでいいのだろうか?近いうちに閉塞していく予感。日本の作家は『政治的に幼稚』なので、ジェンダーという政治的タームを前にすると思考が停止してしまう人や暴走してしまう人、戦中の時みたいにネグレクトを決め込んだり、そもそも全く文章書きとしては信じられないくらい無知だったりするので、彼/彼女らの活動を「子供だましのお遊戯」としか把握されえず、真綿で絞め殺すような無言の圧迫に活動が空中分解してしまう可能性が高い。「家父長制的温情の込められた生暖かい目で見守りながらも黙殺」というところか。矛盾、もしくは戦術ミス。
ホテル内で大会参加者向けに特別に売られているお弁当を部屋で急いで掻き込む。お腹が一杯になると眠くなるじやないか・・・と眠ることを考えたが、時間が勿体無い。部屋を出て、中を徘徊する。
13時からの企画は「小さなお茶会 小谷真里・野阿梓」に。限定10名なので、もう締め切られているのではと思ったら、まだ枠があると言われたので参加。ところが、野阿さんが全然姿を見せない。その間、小谷さんがノートパソコンでここ最近出かけたイベントで撮影した画像を鑑賞ソフトを立ち上げて皆に見せてくれた。昨年のゆ〜こんや、アメリカで開催されている女性による女性のためのSF大会とか。海外の有名作家や教授は余りに遠く、時に故人のように認識していることがある。こうやって、アーシュラ・K・ルグィンの画像を見せてもらうことでそういう錯誤を修正することができる。他にも網状言論一行の韓国のヲタクとの交流会の映像とか。
30分遅れでの登場の野阿さんは昼食を食べていたらしい。参加者の自己紹介をしたあとは、だらだらとおしゃべり。先程、披露したSF大会の様子やあちらで仕入れた情報など。ワールドコンで始めてマスカレード(コスプレ)をした人、つまり世界で始めてコスプレをした人にあったという話も興味深かった。初めてのコスプレはスーパーマンだったらしい。 それから、「コルサール事件」についての話題でしばし盛り上がる。ゲストに尋ねたい事柄があったのだが、場にそぐわないので自粛。
15時。梶尾真治さんの朗読とお茶会に惹かれたが、最近の作品(例えば「黄泉がえり」など)を読んでいないので、参加を躊躇われ断念。代わりに「SFアニメ舞台裏〜ラーゼフォンの場合〜」(出渕祐、他)に。地上波TV放映、しかも2クールということに対し、周辺は「基地外沙汰だ。絶対、失敗する。」と警告していたらしい。初監督として手がけるには締切とか制限が地上波放映に比べればトンでもなくユルユルな『おヴぁ』が楽で失敗が少ない。最初からそんな過酷な物を手がけるなんて無謀でしかない・・・と。
出渕さんは「地上波放映でなければならなかった。でなければ、アニメを作る意味がなかった。」と。何故か。何故、地上波ではなければならないのか。それは、視聴者を考えて、受け手を考えてのこと。おヴぁを買ったり、CS放送の契約をしたりと自ら動いて見ることが出来、そしてそうする大人のファンだけを的にした作品にしたくない。地上波放送には『偶然の出会い』という要素がある。既存メディアかつ無料放送である故に。「全く放送を知らなかった、興味を抱いていなかった子供が偶々チャンネルを変えているときに出会う」というシチュエーションは、おヴぁやCS番組よりは発生確率が高いだろう。というより、おヴぁやCS番組、いやマーケティング中心主義の商品は標的以外の客層を無視することで戦力を集中する戦略を取っている。出会いは偶然ではなく、必然でなければならない。おヴぁは10歳の子供を相手にはしない。地上波放送に拘る出渕さんはスポンサーがどこであれ10歳の子供をも対象にしていた。ラーゼフォンというテクストを子供達がその時点で咀嚼するとは勿論考えていない。そうではなく、彼らの心の中にSEEDを植えられればそれでいい。いつかもう少し大人になって自分なりに理解してくれればそれでいい。受け手の可能性を信じての発信。判らないものは判らないままに。
ラーゼフォンのデザインをやわらかくしたのは、中性的なイメージを与えたかったため。ロボット物というと女性には敷居が高くなりがちだが、女性にも観てもらいたい。そのため、かなり意図的な設定や演出も加味したようだ。
何気なく聞いてしまったらそれまでだが、これらの単語を別の業界の単語に入れ替えたとき、『表現者』は誰に、何を、どのように・・・という古典的な命題について語っていることが見えてくる。
個人的ににやりとしたのは、ガイナックスの話題。劇場版の監督が急病で倒れて参加できなかったため、代わりに参加した某プロデューサーとのやりとりのなかで。「○○さんも、ガイナックスの近くに引っ越したらどうですか?目の前のマンションはまだ部屋が余っているようですよ。」・・・ククク・・・久さん(笑)。
仮眠・・・寝坊
星雲賞授賞式・パーティー
21時。
選択:「やおいパネルディスカッション」小谷真理、野田令子、ひかわ玲子、秋津京子
BLの現状。JUNEともやおいとも違う地平。
少女漫画というジャンルが健全(?)な発達を妨げられた結果、別の形で進化した。ここも『裏進化』。
その社会からの抑圧は、そのまま少女に対する性的抑圧と等価。「主体であることの否定」。
BL作家として紹介された秋津さんはしかし最近業界から離れているらしく、とんと疎くて知り合いの編集者さんに現状を教えてもらったらしい。
それによると、しばらく前までは「学園物」としてBLが主流だったのだが、「リーマン物」に移っているという。そして、ソフトな描写からハードな描写に。
「リーマン物」は三高(笑)で美形の青年が年下の普通の後輩を・・・というシチュエーションらしい。「学園物」では閉鎖された中故に権力関係はほぼ同等と言ってもいいが、「リーマン物」は片方が圧倒する。ここに現実世界の女性の生き辛さを垣間見て、陰鬱な気分になる。主客転倒もなく、力ある『攻め』からひたすら「愛」を頂戴することを願う『受け』。そんなのが受けているのか。だったら、別にBLじゃなくてもいいじゃん。
性描写の回数も多く、どうやら編集者の指示によって「30ページに1回はその手のシーンを入れる」という感じになっているらしい。野阿さんは、そこにファンクション・ノベルを見ていた。回数が増えるということは、1つのシーンの物語における強度は弱まるということだ。「量」が「質」を駆逐する。それもある意味で今のご時世に沿った物なのかもしれない。お腹一杯なのに餓えているというような。
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