いぬもあるけば・・・「日本SF大会 最終日」
2003年7月21日 深夜企画は気が付くと「出渕祐の部屋」に。建前、23時から25時までの企画だったのだが、目的が皆で酒でも飲みながらの雑談なので、話が尽きるまでひたすら語りつづける場になった。
最初はネタとして、発売前のラーゼフォンのゲームのオリジナル画像を録画したものを上映。初回特典としてついてくる映像は15分あるもので、外伝としても、そして劇場版では扱いが薄かった久遠のみのモノ/ダイローグ。声優、桑島 法子の実力を見る・・・という感じ。その後は、劇場版ラーゼフォンの映像をボリュームを押さえて流しながら、雑談モード。
8月下旬に売りに出されるDVDに触れた際、特典に載せるために久々に押井さんと話をしたと。対談だったはずが、押井さんへのインタビューみたいなものになったと。今、押井さんのインタビューをやらせたら一番だという自信がある。普通の人が聞き出せない事をぼろっと聞き出している。この対談だけでもDVDはかなり価値がありそうだ。
二人とも特撮や戦争映画をよく見ていることもあって、例えば「『機動警察パトレイバー the move』で箱舟に潜入してゼロを最後に機動を止めるシーンは『レマゲン鉄橋』(のオマージュ)でしょう?と確認を求めるとにやりと笑った。」とか。
映画を沢山観ている人は監督達のオマージュを見つけることができ、より楽しめる。ナディアも、ノーチラス号の発進のシーンはある映画の1シーンを彷彿させるという。
最近の若手監督の作品は映像先行で、古典的な映画手法を知らないで作られた作品が多いと嘆く。長い歴史を持つ日本映画の現場には、様々なノウハウが詰まっている。が、そのノウハウが後の世代に伝わることなく消える可能性がある。アートとして、個人的なものとしての映像を作ることは簡単になった。が、「形式」で醸し出したり、隠喩したりする方法は言語と同じで学ばねば使いこなせない。ハリウッドや日本映画などの実写よりもアニメや特撮の方がそれが伝わって使いこなしていたりする。
「WX3 機動警察パトレイバー」は脚本や演出に注目して、一般映画としてみるとその秀逸さが浮かび上がってくる。隠喩が多用された映像。物語のテーマは「喪失」。台詞による直接的な表現ではなく、間接的な表現で「喪失」とそこにある「哀しみ」を浮かび上がらせている。小物1つにもそれが隠喩として意味を持つ。松葉杖も「喪失」を暗喩し、醸し出すアイテム。最後に東京を俯瞰するシーンがあるが、監督の求めるイメージは難易度が高く、そのような背景は得られないのではと思われた。もし、駄目ならば、そのシーンは諦めざるを得ない。が、上がってきた背景を見て、監督は「これだ!」と大喜びしたという。
出渕さんにとって、監督をするに当たって最も影響を受けたのは、この遠藤卓司監督だという。これを頭に入れて、劇場版ラーゼフォンを見る。つまり、読み取る姿勢で見る。
古典を学ぶことの重要性。感動する為に必要な、伝達されるのに必要な教養。本歌取り。修辞学。入力インピーダンス。
なぜ、教養としての・・・云々という修飾があるのかいえば、その修飾されるものは「誰でも判って楽しめる」ものではないのだ。知っている人は膝を打つシーンも知らない人はスルーする。「面白くなかった」のではない、「判らなかった」なのだ。推理小説にジェットコースター的なドキドキハラハラを求めないのと同様に。
問い:「なぜSFし続けているのか?」
応え:「SFには『恩』がある。救ってくれたことに対する恩が。」
あの事件、大量のビデオテープと自室の映像を見て、出渕さんもショックを受けた人の一人だった。「あれは‥‥俺じゃないか‥‥」
犯人と自分との違い。『一線』を超えさせなかったもの。破滅せずに社会と繋ぎ止めてくれたもの。それが、『SF』であり、『SFファンダム活動』だった。‥‥だけだった。
そういう意味でSFには恩がある。ゲストとはいえ、1参加者としてこの場にやってきたのもSFに報いる事が頭にある。
私は理解する。なぜならば、異なる個人的事情であるが同じ流れで破滅から救われ、同じ論理で『PBM』を続けているから‥‥
最後に「フランケンシュタイン対地底怪獣」と「ガス人間第一号」を見るようにと勧められて23時〜5時までのある意味狂気の宴は終わった。
部屋に戻って、2時間ほど気絶。強制立ち上げするために、温泉に。食事の後の閉会式の間の僅かな時間、また気絶。
それにしても、今だから言える「『機動警察パトレイバー the move』の裏話」は驚きというより、恐ろしさを感じた。いかにある作品を我々が見る裏側で色々な事が起きているのかを知った。その作品の有無に繋がるぐらいのこと。ヤバ過ぎて、ちょっとネットには書き込めないな。
最初はネタとして、発売前のラーゼフォンのゲームのオリジナル画像を録画したものを上映。初回特典としてついてくる映像は15分あるもので、外伝としても、そして劇場版では扱いが薄かった久遠のみのモノ/ダイローグ。声優、桑島 法子の実力を見る・・・という感じ。その後は、劇場版ラーゼフォンの映像をボリュームを押さえて流しながら、雑談モード。
8月下旬に売りに出されるDVDに触れた際、特典に載せるために久々に押井さんと話をしたと。対談だったはずが、押井さんへのインタビューみたいなものになったと。今、押井さんのインタビューをやらせたら一番だという自信がある。普通の人が聞き出せない事をぼろっと聞き出している。この対談だけでもDVDはかなり価値がありそうだ。
二人とも特撮や戦争映画をよく見ていることもあって、例えば「『機動警察パトレイバー the move』で箱舟に潜入してゼロを最後に機動を止めるシーンは『レマゲン鉄橋』(のオマージュ)でしょう?と確認を求めるとにやりと笑った。」とか。
映画を沢山観ている人は監督達のオマージュを見つけることができ、より楽しめる。ナディアも、ノーチラス号の発進のシーンはある映画の1シーンを彷彿させるという。
最近の若手監督の作品は映像先行で、古典的な映画手法を知らないで作られた作品が多いと嘆く。長い歴史を持つ日本映画の現場には、様々なノウハウが詰まっている。が、そのノウハウが後の世代に伝わることなく消える可能性がある。アートとして、個人的なものとしての映像を作ることは簡単になった。が、「形式」で醸し出したり、隠喩したりする方法は言語と同じで学ばねば使いこなせない。ハリウッドや日本映画などの実写よりもアニメや特撮の方がそれが伝わって使いこなしていたりする。
「WX3 機動警察パトレイバー」は脚本や演出に注目して、一般映画としてみるとその秀逸さが浮かび上がってくる。隠喩が多用された映像。物語のテーマは「喪失」。台詞による直接的な表現ではなく、間接的な表現で「喪失」とそこにある「哀しみ」を浮かび上がらせている。小物1つにもそれが隠喩として意味を持つ。松葉杖も「喪失」を暗喩し、醸し出すアイテム。最後に東京を俯瞰するシーンがあるが、監督の求めるイメージは難易度が高く、そのような背景は得られないのではと思われた。もし、駄目ならば、そのシーンは諦めざるを得ない。が、上がってきた背景を見て、監督は「これだ!」と大喜びしたという。
出渕さんにとって、監督をするに当たって最も影響を受けたのは、この遠藤卓司監督だという。これを頭に入れて、劇場版ラーゼフォンを見る。つまり、読み取る姿勢で見る。
古典を学ぶことの重要性。感動する為に必要な、伝達されるのに必要な教養。本歌取り。修辞学。入力インピーダンス。
なぜ、教養としての・・・云々という修飾があるのかいえば、その修飾されるものは「誰でも判って楽しめる」ものではないのだ。知っている人は膝を打つシーンも知らない人はスルーする。「面白くなかった」のではない、「判らなかった」なのだ。推理小説にジェットコースター的なドキドキハラハラを求めないのと同様に。
問い:「なぜSFし続けているのか?」
応え:「SFには『恩』がある。救ってくれたことに対する恩が。」
あの事件、大量のビデオテープと自室の映像を見て、出渕さんもショックを受けた人の一人だった。「あれは‥‥俺じゃないか‥‥」
犯人と自分との違い。『一線』を超えさせなかったもの。破滅せずに社会と繋ぎ止めてくれたもの。それが、『SF』であり、『SFファンダム活動』だった。‥‥だけだった。
そういう意味でSFには恩がある。ゲストとはいえ、1参加者としてこの場にやってきたのもSFに報いる事が頭にある。
私は理解する。なぜならば、異なる個人的事情であるが同じ流れで破滅から救われ、同じ論理で『PBM』を続けているから‥‥
最後に「フランケンシュタイン対地底怪獣」と「ガス人間第一号」を見るようにと勧められて23時〜5時までのある意味狂気の宴は終わった。
部屋に戻って、2時間ほど気絶。強制立ち上げするために、温泉に。食事の後の閉会式の間の僅かな時間、また気絶。
それにしても、今だから言える「『機動警察パトレイバー the move』の裏話」は驚きというより、恐ろしさを感じた。いかにある作品を我々が見る裏側で色々な事が起きているのかを知った。その作品の有無に繋がるぐらいのこと。ヤバ過ぎて、ちょっとネットには書き込めないな。
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