いぬもあるけば・・・「事前学習」
2003年11月20日 久々にOMC発注。といってもPC掲示板で使うアイコンだけれど。鳴沢滉延さんが依頼枠を開けていたからフラフラと。「寂しそうな微笑を浮かべている」
WT14のF1で対策会議とその調査で頑張っていただいたNさんから、旧「品プラ酒豪会」の面々の呑み会のお誘い。同報に載っていた名前に随分久々な人の名前が‥‥(Jさんとか)。明後日の夜は予定がないから参加できるだろう。川崎駅集合ならば自宅からも近いし。
旅行後初めてのカルチャースクール(以降CS)。着物を貸していただいた方にまず袴を返した。長着はまだ丸洗いから戻って来ていないので。
今日は「日本の工芸史 −明治の置物から現代のアートまで−」という事で、11月30日まで芸大美術館で開催されている「工芸の世紀」展を元にした話だった。丁度、先日たまははきで話題にしていた事と、まだ観に行っていないこともあって興味深く拝聴した。
第一部 近代工芸前史 <キーワード>江戸時代の工芸 手の技−細工物 実用品と工芸の間
明治からだと思ったら、キチンと江戸の話も入っていた。この間の論議って‥‥(汗)。
まず誤解を解くことから始まった。江戸の職人は今の職人よりも遥かに大事にされていて、腕さえあれば食べていく事ができた。大事にされるというのは例えば名人の場合、大名にかわいがられたとか(パターナリズム的だととして政治的には批判されるかもしれしれないが)。「食べていく事ができた」というのも、他の庶民の生活レベルも一様に低かったから同じように生活できたというのもあるが、少なくとも収入が全くないために廃業ということはなかった。
焼き物などはそれなりに広い場所を必要とするが、彫金や漆は狭い場所でも十分作業が出来る。そういう意味で都市型工芸といえる。 西山松之さんの資料。「古賀フミ 佐賀錦 廊下の片隅 NHK取材 絵にならないので断念 それぐらい僅かな場所で作業が出来る」
また、当時は職人が腕を振るう場所があった。
『刀』 刀は職人の手による総合芸術品と考えられる。刀剣そのものも金属加工の粋であるが、小柄、縁頭、目貫などの細工物や鞘も多くの職人の仕事によって作られている。個性を出そうと、細工物も凝ったものが要求されていた。鞘などは毎日帯に差すわけで耐久が試される実用品で腕の見せ所の1つだった。松屋会記の松屋は漆屋であったが、中世の漆は寺が得意先であったが、近世では武士が得意先だった。
第二部 開国・新政府による殖産興業・博覧会の時代 <キーワード>明治時代の工芸 富国強兵策の一環 「日本の主張」 外貨獲得
明治6年、明治政府として初めてウィーンで開かれた万国博覧会に参加した。当時の博覧会は、展示作品は売り物だった。外国人のアドバイスを受けて出展したところ、これが大当たり。貴重な外貨を得た。これに味を占めて、明治政府は工芸品を輸出することで外貨を獲得しようと翌年半官半民の外国人向けお土産販売を事業とする「起立(きりゅう)工商会社」設立となった。
その翌年の明治9年、「廃刀令」公布。これを是としない武士によって翌年西南戦争が勃発する訳だが、これは武士だけの問題ではなかった。刀という職人にとって腕の見せ所と重要な需要が失われた。これは例えれば芸術家にとって美術館や画廊がなくなってしまう事。「今、ガソリンやインターネットは戦略資源なので一部の物しか使用を認めないという「廃自動車令」とか「廃インターネット令」が出された時の影響」を想像してみればいい。運転手やネットユーザーだけの問題ではない事ぐらいは推察できるだろう。
ところで、西南戦争のあった明治10年には万国博覧会を参考に内国勧業博覧会が開かれる。良い「商品」を生み出すための仕掛け。東京美術学校が開校されるのはそれから10年以上後の明治22年。明治26年にシカゴ万博、明治33年にパリ万博。明治40年に第一回文部省美術展(文展)が開催。文展の流れが日展とか。
シカゴ万博に出展された「十二の鷹」のスライドを見せてもらった。なるほど凄い。林忠正と鈴木長吉そして鷹匠が一緒に写っている写真が印象的。
第三部 東京美術学校における工芸 <キーワード>職人と芸術家の間 何を作るか 技術と創造
明治22年に東京美術学校が開校。工芸科の発展 図案科(金工・漆工)が翌年に美術工芸科(金工・漆工)となった。工芸としてこの2つが取り上げられたのは江戸の職人に金工と漆工が多かったため。岡倉天心が今は東博に収蔵されている明珍宗察の「自在龍置物」を見て、感銘を受けたという話がある。これは鎧の技術を使った龍の置物で、その名の通り自由自在に形を変えられる。「可動戦士ガンダム[http://www.h4.dion.ne.jp/~kasatosi/kadou%20gundam.html]」よりも凄い?(ぉ。 展示会ではこれだけでなく、自在の手長海老の置物も展示されるらしいのだが、その長い触角が凄い。一見、細い20cmほどの線なのだが、実は線ではない。パイプなのだ。実際の触角も中に神経が入っているので筒状であるのだが、それを模しただけではない。強度を持たせるため。もちろん、尻尾の部分も完全可動とか。触って動かしてみたい〜。
閑話休題。明治23年に帝室技芸員制度が出来た。今の重要無形文化財(人間国宝)指定制度と似ているようだが決定的に違う。これに選ばれた人の作品は「天皇の命で、作るものは全て買い上げ」される。逆に言えば民間の物は作らせない。素晴らしい物を作り、生活は完全に保証される。人間国宝は年間200万円ぐらいしか支給されない。それだけでは生活は出来ない。生活のためのでなく、他の者に技術を伝えるための「材料費」という位置付けらしい。だから、人間国宝といえど、思うがままの作品を作っていられるわけでない。
しかし、東京美術学校の美術工芸科は順風という訳ではなかったようだ。卒業生と小さい頃から修行している者とでは技術に埋められない差がある。現場では使えないと言われてしまう。そこで、技術そのものではなく、図案などのデザインを生み出す能力を高める方に力を置くようになったようだ。
しかし、陶芸講座設置が昭和38年、染織講座設置が昭和42年とは随分時の隔たりがあるものだ。陶芸家の存在は明治以降の工芸の世界ではある事の先駆けだったらしい。それはそれだけで食べていける作家が出てきたこと。何でも10年ほど修行すると今でも食べていけるそうだ。ある陶芸の産地ではベンツをもつ家がゴロゴロしているらしい。民間の人が買うということで商売になるのだろう。
第四部 大正・昭和の工芸 <キーワード>職人から芸術家へ 実用と芸術 「用」を目的としない「工芸」 「工芸」とは何かの論議
工芸が芸術として認められたのは随分後になってのことだった。高村豊周(とよちか)や柳宗悦が運動し、昭和2年の第8回帝展に「第四部 美術工芸」が設置された頃にようやっとという事らしい。
太平洋戦争後、帝国政府がなくなったことで、帝室技芸員制度は自動的に廃止。昭和21年に第一回日展。実用を伴なわない作品。こちらの流れが芸術院。
昭和27年に無形文化財制度が発足し、昭和29年に第一回日本伝統工芸展。こちらは伝統、つまり実用品が中心。
つまり、今の工芸の世界は2つの流れがある。
WT14のF1で対策会議とその調査で頑張っていただいたNさんから、旧「品プラ酒豪会」の面々の呑み会のお誘い。同報に載っていた名前に随分久々な人の名前が‥‥(Jさんとか)。明後日の夜は予定がないから参加できるだろう。川崎駅集合ならば自宅からも近いし。
旅行後初めてのカルチャースクール(以降CS)。着物を貸していただいた方にまず袴を返した。長着はまだ丸洗いから戻って来ていないので。
今日は「日本の工芸史 −明治の置物から現代のアートまで−」という事で、11月30日まで芸大美術館で開催されている「工芸の世紀」展を元にした話だった。丁度、先日たまははきで話題にしていた事と、まだ観に行っていないこともあって興味深く拝聴した。
第一部 近代工芸前史 <キーワード>江戸時代の工芸 手の技−細工物 実用品と工芸の間
明治からだと思ったら、キチンと江戸の話も入っていた。この間の論議って‥‥(汗)。
まず誤解を解くことから始まった。江戸の職人は今の職人よりも遥かに大事にされていて、腕さえあれば食べていく事ができた。大事にされるというのは例えば名人の場合、大名にかわいがられたとか(パターナリズム的だととして政治的には批判されるかもしれしれないが)。「食べていく事ができた」というのも、他の庶民の生活レベルも一様に低かったから同じように生活できたというのもあるが、少なくとも収入が全くないために廃業ということはなかった。
焼き物などはそれなりに広い場所を必要とするが、彫金や漆は狭い場所でも十分作業が出来る。そういう意味で都市型工芸といえる。 西山松之さんの資料。「古賀フミ 佐賀錦 廊下の片隅 NHK取材 絵にならないので断念 それぐらい僅かな場所で作業が出来る」
また、当時は職人が腕を振るう場所があった。
『刀』 刀は職人の手による総合芸術品と考えられる。刀剣そのものも金属加工の粋であるが、小柄、縁頭、目貫などの細工物や鞘も多くの職人の仕事によって作られている。個性を出そうと、細工物も凝ったものが要求されていた。鞘などは毎日帯に差すわけで耐久が試される実用品で腕の見せ所の1つだった。松屋会記の松屋は漆屋であったが、中世の漆は寺が得意先であったが、近世では武士が得意先だった。
第二部 開国・新政府による殖産興業・博覧会の時代 <キーワード>明治時代の工芸 富国強兵策の一環 「日本の主張」 外貨獲得
明治6年、明治政府として初めてウィーンで開かれた万国博覧会に参加した。当時の博覧会は、展示作品は売り物だった。外国人のアドバイスを受けて出展したところ、これが大当たり。貴重な外貨を得た。これに味を占めて、明治政府は工芸品を輸出することで外貨を獲得しようと翌年半官半民の外国人向けお土産販売を事業とする「起立(きりゅう)工商会社」設立となった。
その翌年の明治9年、「廃刀令」公布。これを是としない武士によって翌年西南戦争が勃発する訳だが、これは武士だけの問題ではなかった。刀という職人にとって腕の見せ所と重要な需要が失われた。これは例えれば芸術家にとって美術館や画廊がなくなってしまう事。「今、ガソリンやインターネットは戦略資源なので一部の物しか使用を認めないという「廃自動車令」とか「廃インターネット令」が出された時の影響」を想像してみればいい。運転手やネットユーザーだけの問題ではない事ぐらいは推察できるだろう。
ところで、西南戦争のあった明治10年には万国博覧会を参考に内国勧業博覧会が開かれる。良い「商品」を生み出すための仕掛け。東京美術学校が開校されるのはそれから10年以上後の明治22年。明治26年にシカゴ万博、明治33年にパリ万博。明治40年に第一回文部省美術展(文展)が開催。文展の流れが日展とか。
シカゴ万博に出展された「十二の鷹」のスライドを見せてもらった。なるほど凄い。林忠正と鈴木長吉そして鷹匠が一緒に写っている写真が印象的。
第三部 東京美術学校における工芸 <キーワード>職人と芸術家の間 何を作るか 技術と創造
明治22年に東京美術学校が開校。工芸科の発展 図案科(金工・漆工)が翌年に美術工芸科(金工・漆工)となった。工芸としてこの2つが取り上げられたのは江戸の職人に金工と漆工が多かったため。岡倉天心が今は東博に収蔵されている明珍宗察の「自在龍置物」を見て、感銘を受けたという話がある。これは鎧の技術を使った龍の置物で、その名の通り自由自在に形を変えられる。「可動戦士ガンダム[http://www.h4.dion.ne.jp/~kasatosi/kadou%20gundam.html]」よりも凄い?(ぉ。 展示会ではこれだけでなく、自在の手長海老の置物も展示されるらしいのだが、その長い触角が凄い。一見、細い20cmほどの線なのだが、実は線ではない。パイプなのだ。実際の触角も中に神経が入っているので筒状であるのだが、それを模しただけではない。強度を持たせるため。もちろん、尻尾の部分も完全可動とか。触って動かしてみたい〜。
閑話休題。明治23年に帝室技芸員制度が出来た。今の重要無形文化財(人間国宝)指定制度と似ているようだが決定的に違う。これに選ばれた人の作品は「天皇の命で、作るものは全て買い上げ」される。逆に言えば民間の物は作らせない。素晴らしい物を作り、生活は完全に保証される。人間国宝は年間200万円ぐらいしか支給されない。それだけでは生活は出来ない。生活のためのでなく、他の者に技術を伝えるための「材料費」という位置付けらしい。だから、人間国宝といえど、思うがままの作品を作っていられるわけでない。
しかし、東京美術学校の美術工芸科は順風という訳ではなかったようだ。卒業生と小さい頃から修行している者とでは技術に埋められない差がある。現場では使えないと言われてしまう。そこで、技術そのものではなく、図案などのデザインを生み出す能力を高める方に力を置くようになったようだ。
しかし、陶芸講座設置が昭和38年、染織講座設置が昭和42年とは随分時の隔たりがあるものだ。陶芸家の存在は明治以降の工芸の世界ではある事の先駆けだったらしい。それはそれだけで食べていける作家が出てきたこと。何でも10年ほど修行すると今でも食べていけるそうだ。ある陶芸の産地ではベンツをもつ家がゴロゴロしているらしい。民間の人が買うということで商売になるのだろう。
第四部 大正・昭和の工芸 <キーワード>職人から芸術家へ 実用と芸術 「用」を目的としない「工芸」 「工芸」とは何かの論議
工芸が芸術として認められたのは随分後になってのことだった。高村豊周(とよちか)や柳宗悦が運動し、昭和2年の第8回帝展に「第四部 美術工芸」が設置された頃にようやっとという事らしい。
太平洋戦争後、帝国政府がなくなったことで、帝室技芸員制度は自動的に廃止。昭和21年に第一回日展。実用を伴なわない作品。こちらの流れが芸術院。
昭和27年に無形文化財制度が発足し、昭和29年に第一回日本伝統工芸展。こちらは伝統、つまり実用品が中心。
つまり、今の工芸の世界は2つの流れがある。
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