いぬもあるけば・・・「『信仰』を知らない子供達」
2004年2月12日『
決定的なことはこうである、−−神にとっては一切が可能である。これは永遠の真理で、したがって各瞬間に真理である。ところが人々は日常こともなげにそういうことを口にしているのであるが、しかし、人間がぎりぎりのところまで押しつめられて、彼にはもはや(人間的な意味では)いかなる可能性も存在しないようになったとき、そのとき始めて今いったことが真剣に問題となるのである。神にとっては一切が可能であるということを彼に信ずる意志があるかいなかがそのとき問題となる、−−くりかえしていうが、彼に信ずる[#「信ずる」に傍点]意志があるかいなかということである。だがそれでは、それこそ全く公式通り「正気を失う」ことになりはしまいか? しかり! 信ずるというのは実に神を獲得するために、正気を失うことにほかならない。
』
WT4プレイング締め切り。どうにかプレイング送信‥‥今回もぎりぎり。私信を送る余裕は今回もなかった。
自分の調査不足が恥かしい。AERAの2004.1.19号で小倉千加子氏と酒井順子氏の対談記事があったとは。もう、私がああだこうだ書く意味はなくなった。ネットでも引いて観ているサイト[http://www.cafeglobe.com/news/media/index2_040205.html]もあるし。とはいえ、今後もマスコミが多く取り上げるだろうことが予想される。それらは、TV局が視聴率を稼ぐためのヤラセと同じで、燃やすものもなく、火も治まっているのに更にガソリンを掛けるようなもので、マスコミ関係者の発想と精神の貧困さの現れと判断する。その上で、それらの記事を読むと愉しいだろう。イタイ文章を楽しめるはずだ。
そうだ、「負け犬」という言葉を使ってしまったことについて考えた中で面白いものがあった。ある名称に否定的な言葉が使われている場合、それに該当する集団の存在を抑圧することができる。これを利用して、名称の変更を提案したいものがある。
「逆ギレ」という言葉。意味は幼稚で卑怯なものなのに、この単語そのものにはそのような否定的な形容がない。そこでこれを「ガキギレ」としてみたらどうだろう‥‥
話変わって・・・
『信仰』が終わって〜 僕等は生れた〜♪
『信仰』を知らずに〜 僕等は育った〜♪
そんな「『信仰』を知らない子供達」は「死に至る病」を著者の意図通りに『判る』ことは出来ない。エッセーとしてしか読むことが出来ない。
一PBMゲーマーは日本人PCとして、代替品を用いて味わいを想像する。キュウリにハチミツを掛けてメロンを想像するように。それがニセモノであることを知りながら‥‥
『
決定的なことはこうである、−−愛は一切が可能である。これは永遠の真理で、したがって各瞬間に真理である。ところが人々は日常こともなげにそういうことを口にしているのであるが、しかし、人間がぎりぎりのところまで押しつめられて、彼にはもはや(人間的な意味では)いかなる可能性も存在しないようになったとき、そのとき始めて今いったことが真剣に問題となるのである。愛は一切が可能であるということを彼に信ずる意志があるかいなかがそのとき問題となる、−−くりかえしていうが、彼に信ずる[#「信ずる」に傍点]意志があるかいなかということである。だがそれでは、それこそ全く公式通り「正気を失う」ことになりはしまいか? しかり! 信ずるというのは実に愛を獲得するために、正気を失うことにほかならない。
』
決定的なことはこうである、−−神にとっては一切が可能である。これは永遠の真理で、したがって各瞬間に真理である。ところが人々は日常こともなげにそういうことを口にしているのであるが、しかし、人間がぎりぎりのところまで押しつめられて、彼にはもはや(人間的な意味では)いかなる可能性も存在しないようになったとき、そのとき始めて今いったことが真剣に問題となるのである。神にとっては一切が可能であるということを彼に信ずる意志があるかいなかがそのとき問題となる、−−くりかえしていうが、彼に信ずる[#「信ずる」に傍点]意志があるかいなかということである。だがそれでは、それこそ全く公式通り「正気を失う」ことになりはしまいか? しかり! 信ずるというのは実に神を獲得するために、正気を失うことにほかならない。
』
WT4プレイング締め切り。どうにかプレイング送信‥‥今回もぎりぎり。私信を送る余裕は今回もなかった。
自分の調査不足が恥かしい。AERAの2004.1.19号で小倉千加子氏と酒井順子氏の対談記事があったとは。もう、私がああだこうだ書く意味はなくなった。ネットでも引いて観ているサイト[http://www.cafeglobe.com/news/media/index2_040205.html]もあるし。とはいえ、今後もマスコミが多く取り上げるだろうことが予想される。それらは、TV局が視聴率を稼ぐためのヤラセと同じで、燃やすものもなく、火も治まっているのに更にガソリンを掛けるようなもので、マスコミ関係者の発想と精神の貧困さの現れと判断する。その上で、それらの記事を読むと愉しいだろう。イタイ文章を楽しめるはずだ。
そうだ、「負け犬」という言葉を使ってしまったことについて考えた中で面白いものがあった。ある名称に否定的な言葉が使われている場合、それに該当する集団の存在を抑圧することができる。これを利用して、名称の変更を提案したいものがある。
「逆ギレ」という言葉。意味は幼稚で卑怯なものなのに、この単語そのものにはそのような否定的な形容がない。そこでこれを「ガキギレ」としてみたらどうだろう‥‥
話変わって・・・
『信仰』が終わって〜 僕等は生れた〜♪
『信仰』を知らずに〜 僕等は育った〜♪
そんな「『信仰』を知らない子供達」は「死に至る病」を著者の意図通りに『判る』ことは出来ない。エッセーとしてしか読むことが出来ない。
一PBMゲーマーは日本人PCとして、代替品を用いて味わいを想像する。キュウリにハチミツを掛けてメロンを想像するように。それがニセモノであることを知りながら‥‥
『
決定的なことはこうである、−−愛は一切が可能である。これは永遠の真理で、したがって各瞬間に真理である。ところが人々は日常こともなげにそういうことを口にしているのであるが、しかし、人間がぎりぎりのところまで押しつめられて、彼にはもはや(人間的な意味では)いかなる可能性も存在しないようになったとき、そのとき始めて今いったことが真剣に問題となるのである。愛は一切が可能であるということを彼に信ずる意志があるかいなかがそのとき問題となる、−−くりかえしていうが、彼に信ずる[#「信ずる」に傍点]意志があるかいなかということである。だがそれでは、それこそ全く公式通り「正気を失う」ことになりはしまいか? しかり! 信ずるというのは実に愛を獲得するために、正気を失うことにほかならない。
』
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