いぬもあるけば・・・「口当たり」
2004年4月12日どうにか体調は戻った‥‥ということで出勤。段々出勤時間が遅れてくるのが危険だ。ギリギリに出る生活にはしたくないが。
「幸福は絶望のうえに」(アンドレ・コント=スポンヴィル著)を読んだ感想としては「軽い」だった。それは内容がではなく、口当たりのようなものが。吟醸酒を描写する「さらり」というのが当てはまるだろうか。内容としては、それほど意識していなかったスピノザに対する視線を与えてくれたり、日本人には判りにくい「無神論者」の雰囲気が掴めたりと読んだ甲斐はあった。スピノザ、仏教に影響を受けて‥‥というところで現代フランス哲学と呼ばれていたものとはちょっと違う事が理解できる。
それが端的に表されるのは彼が受け入れている哲学の定義にあろう。エピクロスの「哲学とは、言論と推論とを用いて、われわれに幸福な人生を与える一つの活動である」。尤も、古代と現代の差から若干の留保を設けてはいるけれど。
さらりと書いてあるが、実に難しい「あるがままに生きる」ということ。何があるがままなのかが判らない。いや、判るのが恐ろしい。
例えば、感情。私は自分の感情をあるがままに表す事が完全には出来ていない。「喜怒哀楽」という言葉あるが、この中で一番縁遠い感情が「怒」の感情だ。それは怒りの感情が無いという事ではない。きちんと表す事が出来ない。つまり抑圧しているのだ。この抑圧はオートマチックに働く。軽く自己分析すれば、色々思い付く。とまれ、感情生活において私は偏っている。それでもまだ把握しているからましな方なのだろうか。
「大純情くん」にあった言葉を再掲する。
『怒るべきときに怒らない人間は真のバカである 私は怒れる人間になりたい』
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