いぬもあるけば・・・「発掘」
2005年12月1日 冬。
この部屋に引越ししてから初めての冬。
そろそろ暖房について考えなければ。
部屋を片付けないと何も始まらないのでまずいくつかの品物を隣の部屋に水平移動。
それから天袋の奥からホットカーペットを発掘して広げた。
これと備え付けのエアコンがあればなんとかなりそうだが、エアコンは電気料金が馬鹿にならない。
・・・今、調べたのだが、6畳間になんでダイキンのS28ATESが設置されているんだ?
99年製という古さはともかく、10畳用のが設置されてある意味は・・・ブレーカーのことを考えると訳が判らない。
しまった。こういう事を調べて置かなかったのは失敗だった。
1つの事を話すのに、前提の知識を共有しておかないと難しいことがあったりする。
− − − − − − − −
いまここに一人の貧しい日傭取り(ひやといとり)と史上に類のない程の強力な権力をもった帝王がいるとする。
この無上の権力をもった帝王が突如として使者をこの日傭取りの許に遣(つか)わすことを思いついたとしよう。
帝王が自分の存在を知っているなどという考えはこの日傭取りの心には夢にも浮かんだことはなかったし、それは「その心未だ思わざりし所」であった。
もしも帝王をただの一度でも仰ぎ見ることが許されることでもあればこの男は自分を無上に幸福な人間と感じて、それを彼の生涯の最大の事件として子々孫々に語り伝えることでもあろう。
さてこの日傭取りのもとに帝王が使者を遣わして、帝王が彼を養子に欲しいと考えているということを彼に知らせるとする、−−一体どういうことになるであろうか?
日傭取りは、彼がそれを人間として人間的に受取るものとすれば、きっとすこしばかり戸惑いして(おそらく非常に戸惑いするかもしれぬ)なんだか羞ずかしいような困ったような気がすることだろう。
彼にはそれが人間的には何かしら非常に奇妙なこと馬鹿げたことに思われる(これが人間的なことである)ので、こんなことは決してほかの人には話してはならないと考える。
というのは知人や隣人がそれを聞いたら誰にもすぐ思いつくであろうところの解釈が既に彼自身の心の底にも頭を擡(もた)げてきているのである、−−帝王は自分を馬鹿にしようとしておられるのだ、それで自分は街全体の笑いものになり、自分の漫画が新聞に載せられ、帝王の皇女との自分の結婚話が大市で売られることになるのだ、と。
いったい帝王の養子になるというこのことは、むろんすぐにでも外的な現実となりうることなのであり、したがってまたこの日傭取りは、帝王がどの程度までそのことを真剣に考えているのかどうか、それとも帝王はこの貧乏人をただ馬鹿にしようとしているのか、その結果彼の全生涯を不幸なものにし、結局彼が気狂病院ででも終るようにしむけるつもりなのかどうか(というのは、いまの場合のような度のすぎたことをいうものは、容易にその反対に転化しうるものだから)、を自分の五官でたしかめうるはずなのである。
ところが小さな好意を示されたのであればこの日傭取りにも理解することができるであろうし、小都会に住んでいる人達もそれを理解することができよう、大いに尊敬せらるべき教養ある公衆も、すべての聡明な御婦人達も、要するにかの小都会の五十万の住民の一人一人(一体人口の点ではこの小都会も或いは相当の大都会であるのかもしれぬが、並はずれたものに対する感覚と理解の点ではまことにちっぽけな小都会なのである)がそれを理解しうるであろうが、日傭取りが帝王の養子になるなどということは、これはあまりといえばあまりのことである。
ところがいま外面的な事実は全然問題にならないで、ただ内面的な事実だけが問題であるとする、したがって日傭取りを確信に導きうるようないかなる事実も存在せず、信仰のみが唯一の事実であるとする、そこで一切が信仰に委ねられているとする、−−その場合でも彼の男にはあえてそれを信ずるだけの十分に謙遜な[#「謙遜な」に傍点]勇気があるであろうか?
というのは厚顔な勇気は信仰[#「信仰」に傍点]まで導くことはできない。その場合一体それだけの勇気をもっている日傭取りが幾人いるであろうか?
さてそういう勇気をもたぬ者は、躓くであろう、並はずれたことが彼には彼に対する嘲笑のように響くことであろう。
おそらくその場合彼は明らさまにまじめにこう告白するであろう、−−「そういうことは私にはあまり高すぎる、私はそれを理解することができない、(腹蔵なくいえば)それは馬鹿げたことのように思われる。」
*『死に至る病』
この部屋に引越ししてから初めての冬。
そろそろ暖房について考えなければ。
部屋を片付けないと何も始まらないのでまずいくつかの品物を隣の部屋に水平移動。
それから天袋の奥からホットカーペットを発掘して広げた。
これと備え付けのエアコンがあればなんとかなりそうだが、エアコンは電気料金が馬鹿にならない。
・・・今、調べたのだが、6畳間になんでダイキンのS28ATESが設置されているんだ?
99年製という古さはともかく、10畳用のが設置されてある意味は・・・ブレーカーのことを考えると訳が判らない。
しまった。こういう事を調べて置かなかったのは失敗だった。
1つの事を話すのに、前提の知識を共有しておかないと難しいことがあったりする。
− − − − − − − −
いまここに一人の貧しい日傭取り(ひやといとり)と史上に類のない程の強力な権力をもった帝王がいるとする。
この無上の権力をもった帝王が突如として使者をこの日傭取りの許に遣(つか)わすことを思いついたとしよう。
帝王が自分の存在を知っているなどという考えはこの日傭取りの心には夢にも浮かんだことはなかったし、それは「その心未だ思わざりし所」であった。
もしも帝王をただの一度でも仰ぎ見ることが許されることでもあればこの男は自分を無上に幸福な人間と感じて、それを彼の生涯の最大の事件として子々孫々に語り伝えることでもあろう。
さてこの日傭取りのもとに帝王が使者を遣わして、帝王が彼を養子に欲しいと考えているということを彼に知らせるとする、−−一体どういうことになるであろうか?
日傭取りは、彼がそれを人間として人間的に受取るものとすれば、きっとすこしばかり戸惑いして(おそらく非常に戸惑いするかもしれぬ)なんだか羞ずかしいような困ったような気がすることだろう。
彼にはそれが人間的には何かしら非常に奇妙なこと馬鹿げたことに思われる(これが人間的なことである)ので、こんなことは決してほかの人には話してはならないと考える。
というのは知人や隣人がそれを聞いたら誰にもすぐ思いつくであろうところの解釈が既に彼自身の心の底にも頭を擡(もた)げてきているのである、−−帝王は自分を馬鹿にしようとしておられるのだ、それで自分は街全体の笑いものになり、自分の漫画が新聞に載せられ、帝王の皇女との自分の結婚話が大市で売られることになるのだ、と。
いったい帝王の養子になるというこのことは、むろんすぐにでも外的な現実となりうることなのであり、したがってまたこの日傭取りは、帝王がどの程度までそのことを真剣に考えているのかどうか、それとも帝王はこの貧乏人をただ馬鹿にしようとしているのか、その結果彼の全生涯を不幸なものにし、結局彼が気狂病院ででも終るようにしむけるつもりなのかどうか(というのは、いまの場合のような度のすぎたことをいうものは、容易にその反対に転化しうるものだから)、を自分の五官でたしかめうるはずなのである。
ところが小さな好意を示されたのであればこの日傭取りにも理解することができるであろうし、小都会に住んでいる人達もそれを理解することができよう、大いに尊敬せらるべき教養ある公衆も、すべての聡明な御婦人達も、要するにかの小都会の五十万の住民の一人一人(一体人口の点ではこの小都会も或いは相当の大都会であるのかもしれぬが、並はずれたものに対する感覚と理解の点ではまことにちっぽけな小都会なのである)がそれを理解しうるであろうが、日傭取りが帝王の養子になるなどということは、これはあまりといえばあまりのことである。
ところがいま外面的な事実は全然問題にならないで、ただ内面的な事実だけが問題であるとする、したがって日傭取りを確信に導きうるようないかなる事実も存在せず、信仰のみが唯一の事実であるとする、そこで一切が信仰に委ねられているとする、−−その場合でも彼の男にはあえてそれを信ずるだけの十分に謙遜な[#「謙遜な」に傍点]勇気があるであろうか?
というのは厚顔な勇気は信仰[#「信仰」に傍点]まで導くことはできない。その場合一体それだけの勇気をもっている日傭取りが幾人いるであろうか?
さてそういう勇気をもたぬ者は、躓くであろう、並はずれたことが彼には彼に対する嘲笑のように響くことであろう。
おそらくその場合彼は明らさまにまじめにこう告白するであろう、−−「そういうことは私にはあまり高すぎる、私はそれを理解することができない、(腹蔵なくいえば)それは馬鹿げたことのように思われる。」
*『死に至る病』
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