コタツを買おうかどうか悩んでいたりする。
小さな折り畳みミニテーブルしかないので、きちんとしたテーブルが欲しい。
そのためにコタツを買うのはちょっと違っている気もする。
 コジマ電気で悩んだり、無印良品のカタログで大きさを検討してみたり。

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(略)
そのことについて全然人間的に語ってみよう。愛の故に一切を捧げようとする衝動を感じたことのなかった人、したがってそのことのなしえなかった人、ああ、これは何と憐れむべき人間であろうか! けれどももしも人間が愛の故のほかならぬ彼のこの献身の故に、もう一人の人すなわち彼の愛人が最大の不幸に陥ることになるかもしれぬということを見出さねばならなかったとしたら、どうであろうか? そこでは次の二つの場合が考えられる。その際彼の愛が緊張力を失い、その力強い生命が途絶えて悲哀の感情の故の閉鎖的な煩悶にまで萎縮し、やがて彼は愛を見捨ててしまう、−−彼は愛の業をあえてなす勇気をもたなかったのである、かくして彼はくずおれる、愛の業のもとにくずおれるのではなしに、前述の可能性の重圧のもとにくずおれるのである。というのはちょうど分銅は竿の端の方にもってゆかれた場合にどこまでも重くなりまさるのであり、それを持ち上げようとする人はそれを反対の端をにぎらなければならないようなもので、いかなる業もそれが弁証法的なものとなるにつれてどこまでも困難の度をまし加えてくるのである、そしてそれが共感的=弁証法的なものとなるときに困難はその絶頂に達する、−−かくて愛が愛人のためになすべく駆りたてたそのことを、別の意味において、愛人に対する心遣いがそれを思い止まらせるように思われるのである。−−もう一つの場合には、今度は愛が勝利を占めるであろう、そして彼は愛による冒険をあえてする。ああされど、愛の喜悦(愛はいつも悦ばしきものである、特にそれが一切を捧げるときには)のただなかに深い悲哀が潜んでいる、なぜというに彼が愛人に危害を及ぼしたかもしれぬという可能性[#可能性に傍点]が考えられるからである! 見よ、その故に彼は涙なしにはその愛の業を成就することも、おのが犠牲(彼自身に関する限り彼は歓喜してこれを捧げたであろう)を捧げることもできなかったのである。この−−何といったらいいだろう−−、内面性のこの歴史的絵画の上にはかの暗い可能性が漂っているのだ。といって、もしもこういう可能性がその上に漂っていなかったとしたら、彼の業は真実の愛の業ではなかったであろう。−−おお、わが友よ、お前は一体この人生において何をなそうとしたというのか! お前の頭脳を絞れ、一切の蔽いを払いのけよ、お前の胸のなかの感情の最内奥をさらけだせ、そしてお前をお前が読んでいるものから引離すところの一切の障壁をとりこわせ、さてそれからシェクスピアを読んでみるがいい、−−お前はあの諸々の矛盾の前に戦慄せしめられることであろう。しかし本来の宗教的な矛盾の前にはシェクスピアでさえもたじろいでいたように見える。おそらくかかる宗教的矛盾はただ神々の言葉によってのみ表現せられうるのである。いかなる人間もこの言葉を語ることができない、−−なぜなら(既にギリシア人が非常に美しくいい現わしたように)人間は語ることを人間から学ぶのであり、神々からは沈黙を教えられるのである。
 神と人間との間に無限の質的相違が存するというその点に、取り去ることのできない躓きの可能性が存する。愛の故に神は人間となる、神は語る。−−「見よ、ここに人間の真の姿がある、おおされど」と彼は附け加える、「汝心せよ、我は同時に神である、我に躓かぬ者は幸いなるかな。」神は人間として卑しい下僕の姿をとる、−−誰も自分は除けられているなどと考えぬように、また人間を神に近づけるものは人間的な声望や人間の間の声望であるなどと考えぬように、神は卑しい人間であることの何たるかを目のあたり示すのである。
(*死に至る病)
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