いぬもあるけば・・・「最終日」
2005年12月9日 川崎チネチッタに。
「Zガンダム〜恋人たち」最終放映。
観客席は8割ほど埋まっていた。びっくりだ。
私と同じように観よう観ようと思っても映画館に足を運べなかった人が最後だからと駆けつけたのだろう。
観終わった感想としては、「これを纏めるには時間が短い」が一番だった。
群像劇なので登場人物が多いため、初めて観る人はキャラを把握するだけで精一杯だったのでは。
さて、次が最後だけれどどういう風に改変していくのか・・・
− − − − − − − −
こうした方向で考察すると、親密性とは、決して近しいものたちの間に生起する関係ではないことがわかる。あるいは、一見親密な関係に固有の要素であるとみられる近接性は、実は幻想的外形でしかないのであって、そこに連れ添うものを近接性、あるいは理解可能性の範囲でしか考えないとすれば、親密性は即座に暴力へと転化してしまうことになるだろう。いかに接触度が高かろうと、親密圏の住人は他者なのであり、他者とは決して「わたし」の欲望の鏡や延長ではない。ゆえに、自らの生の基底を分かち合うような親密な関係を成就するということは、近しいものを遠いものとして、あるいは最も理解不可能なものとして愛し抜くことに等しい。さらにここで言う「遠さ」とは、他者を愛するという行いが、一方的な拘束や、ナルシスティックな自己投影に終わらないため、常に念頭に置かねばならない不可能性でもある。そしてここにおいて働く愛とは、愛するものの能動的な行為では決してない。他者に寄り添われる親密圏という場において、その人を愛するということは、すでにその存在に対する応答である。だから愛することは受動的な行いであり、その能動性は他者の側にある−−一方が他方を領有しないで済む呼応関係においてはまた、時として愛が、それを断念することにより完遂されることもあり得よう。
(引用元 「遠いものを愛すること」 新田啓子)
「Zガンダム〜恋人たち」最終放映。
観客席は8割ほど埋まっていた。びっくりだ。
私と同じように観よう観ようと思っても映画館に足を運べなかった人が最後だからと駆けつけたのだろう。
観終わった感想としては、「これを纏めるには時間が短い」が一番だった。
群像劇なので登場人物が多いため、初めて観る人はキャラを把握するだけで精一杯だったのでは。
さて、次が最後だけれどどういう風に改変していくのか・・・
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こうした方向で考察すると、親密性とは、決して近しいものたちの間に生起する関係ではないことがわかる。あるいは、一見親密な関係に固有の要素であるとみられる近接性は、実は幻想的外形でしかないのであって、そこに連れ添うものを近接性、あるいは理解可能性の範囲でしか考えないとすれば、親密性は即座に暴力へと転化してしまうことになるだろう。いかに接触度が高かろうと、親密圏の住人は他者なのであり、他者とは決して「わたし」の欲望の鏡や延長ではない。ゆえに、自らの生の基底を分かち合うような親密な関係を成就するということは、近しいものを遠いものとして、あるいは最も理解不可能なものとして愛し抜くことに等しい。さらにここで言う「遠さ」とは、他者を愛するという行いが、一方的な拘束や、ナルシスティックな自己投影に終わらないため、常に念頭に置かねばならない不可能性でもある。そしてここにおいて働く愛とは、愛するものの能動的な行為では決してない。他者に寄り添われる親密圏という場において、その人を愛するということは、すでにその存在に対する応答である。だから愛することは受動的な行いであり、その能動性は他者の側にある−−一方が他方を領有しないで済む呼応関係においてはまた、時として愛が、それを断念することにより完遂されることもあり得よう。
(引用元 「遠いものを愛すること」 新田啓子)
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