いぬもあるけば・・・「追っかけ1号?」
2001年6月22日 週明けの出張の準備が終わった後、いそいそと職場を出、自由が丘に向かう。目的地はアイリッシュパブ「O’CAROLAN’S」[->リンク]。自由が丘は久々だ。以前、シングルモルトを教えて貰ったバーがあったのだが、そのときのバーテンがいなくなってしまってからほとんど行かなくなってしまった。
富士銀行、三和銀行そして横浜銀行と・・・狭い道に並ぶ銀行を目印にして無事目的地に到着。階段を上がって店内に入る。20時前。かなり混んでいる。・・・が、客に日本人がほとんどいない(汗)。自由が丘ってそういう街だったっけ?軽い驚きを感じつつ、店内を見渡すと、奥のテーブルに見たことのある人。そしてさらに奥にステージらしき空間が。今日はここで、"kirche"でサポートとしてアコーディオン・キーボードを担当している阿部由佳が加わっている「Windfall」[->リンク]のライブがあるのだ。
ステージ(といってもただの空間)前のテーブルに移動して、顔見知りに挨拶。それから定番の「ギネスとフィッシュ&チップス」を注文。定番をまず最初に頼むのは、その店の具合を知るため。鱈のフライはちょっとスパイシー。ポテトは良く揚がっていて歯ごたえが楽しい。
ギネスをクピクピやりながら、おしゃべりしたり雑誌を眺めたりしているといよいよ演奏開始。でも店内は演奏に関係無くザワザワ。皆、呑みに来ているのだ。我々みたいに聴きに来ている人はほとんどいない。それもあって、ヴォーカルのアンプ出力も押さえられていた。この間のライブとはそういう点で感じが違う。でもこれも良し。阿部さんのアコーディオン、山本さんのギターそして宗田さんの歌声。音楽に乗り、リズムを取り、酒に酔う。心地よいひととき。
2回の休憩を挟んで、3ステージ行ったのだがその休憩時に楽しいことが〜。追加オーダーを頼みにカウンターに行くと、阿部さんがお客さんのおじさんと談笑している。どうやら気に入られて声を掛けてきたようだ。阿部さんの素直な性格からくる丁寧な応答に、赤坂でワインをすでに1本空けた後らしいこともあって益々気に入ってしまったらしい。端で一緒に話に加わっていた私に「お兄ちゃん、彼女の追っかけ1号かい?じゃ、わしは追っかけ2号にさせてもらうよ!」と。へ?追っかけって?1号って?何のこと?いい味出してるよ、おじさん。
最後のステージ終了後、阿部さんや見に来た人達とおしゃべり。ここのスモーク・サーモン のサンドイッチが美味しいという話。次回、試してみよう。7/21にここでライブすることが決定したらしい。おっかけ1号の私は・・・無理そう。ダリエさんのライブとぶつかっている〜。
富士銀行、三和銀行そして横浜銀行と・・・狭い道に並ぶ銀行を目印にして無事目的地に到着。階段を上がって店内に入る。20時前。かなり混んでいる。・・・が、客に日本人がほとんどいない(汗)。自由が丘ってそういう街だったっけ?軽い驚きを感じつつ、店内を見渡すと、奥のテーブルに見たことのある人。そしてさらに奥にステージらしき空間が。今日はここで、"kirche"でサポートとしてアコーディオン・キーボードを担当している阿部由佳が加わっている「Windfall」[->リンク]のライブがあるのだ。
ステージ(といってもただの空間)前のテーブルに移動して、顔見知りに挨拶。それから定番の「ギネスとフィッシュ&チップス」を注文。定番をまず最初に頼むのは、その店の具合を知るため。鱈のフライはちょっとスパイシー。ポテトは良く揚がっていて歯ごたえが楽しい。
ギネスをクピクピやりながら、おしゃべりしたり雑誌を眺めたりしているといよいよ演奏開始。でも店内は演奏に関係無くザワザワ。皆、呑みに来ているのだ。我々みたいに聴きに来ている人はほとんどいない。それもあって、ヴォーカルのアンプ出力も押さえられていた。この間のライブとはそういう点で感じが違う。でもこれも良し。阿部さんのアコーディオン、山本さんのギターそして宗田さんの歌声。音楽に乗り、リズムを取り、酒に酔う。心地よいひととき。
2回の休憩を挟んで、3ステージ行ったのだがその休憩時に楽しいことが〜。追加オーダーを頼みにカウンターに行くと、阿部さんがお客さんのおじさんと談笑している。どうやら気に入られて声を掛けてきたようだ。阿部さんの素直な性格からくる丁寧な応答に、赤坂でワインをすでに1本空けた後らしいこともあって益々気に入ってしまったらしい。端で一緒に話に加わっていた私に「お兄ちゃん、彼女の追っかけ1号かい?じゃ、わしは追っかけ2号にさせてもらうよ!」と。へ?追っかけって?1号って?何のこと?いい味出してるよ、おじさん。
最後のステージ終了後、阿部さんや見に来た人達とおしゃべり。ここのスモーク・サーモン のサンドイッチが美味しいという話。次回、試してみよう。7/21にここでライブすることが決定したらしい。おっかけ1号の私は・・・無理そう。ダリエさんのライブとぶつかっている〜。
いぬもあるけば・・・「共に乾杯」
2001年6月21日 皆既日蝕に合わせていそいそと家に帰り、昨日の日記に書いたサイトにアクセス。
どうやらザンビアは快晴らしい。21時を回っていて、すでに部分日蝕の映像になっていた。
TV放送を確認してみると、どうやらニュースステーションで皆既日蝕の中継映像を放映するようだ。
TVとサイトの2面作戦で皆既日蝕に望む。乾杯の準備・・・あれ?ビールがない。仕方ない。チューハイで代用する事にする。回線の関係で、本当にリアルタイムという訳にはいかない。早い回線を契約していれば・・・と少し後悔。
それでも画像は刻々と変化し、白い円だったものは欠け、線のようになり・・・一瞬kらくなったと思うとダイヤモンドリングが現れた。皆既になる瞬間、そして皆既が終わる瞬間、そういうほんの僅かの間しか見られない。ネットやTVではまるで取り上げていないが、このとき地表ではシャドウバンドという現象が生じる。干渉もうのような黒と白のすじが地表を走る。残念ながら私は見たことがない。皆既の瞬間、ダイヤモンドリングを見ることを断念しないと見ることができないものだから。日食観測のベテラン(?)でもなければ、あえてシャドウバンドを確認するの難しい。二度とない機会の二者選択。
場所を変えての多元中継をしているところは何度も皆既の瞬間をみることができる。これは凄い。ニュースステーションで中継したものに関してはさすがにTVの方が画像がよいのでそちらで堪能。
中空に浮かぶ黒い太陽。黒円の際に見える赤い光、プロミネンス。黒円から放射される白い光、コロナ。
TVカメラが捕らえる日常映像に関しては、我々はほとんどそれを「実際にそのようにみえる映像」だと認識している。しかし、こと天体現象や自然現象となると、なまじ知識があったりすると映された映像を加工されていない生の映像だとは思えなかったりする。実際、銀河のやオーロラなどはTVなどで通常見る映像は肉眼で見たものとはかなり違うのだ。
皆既日食の場合、そのような知識によって、逆に勘違いしてしまうことがある。あまりに不思議な映像ので、TVや写真で見た映像は見やすいように「加工」された映像だと考えてしまう。「写真に映っている映像と肉眼で見るものはかなり違う」だろうと。私がそうだった。
そんな私が日蝕ツアーに出かけ「写真そのままの」白く輝くコロナを望遠鏡などを使わないで見たときの衝撃は大きかった。「写真などで見なれている。実際は迫力も神秘さも別段大したものではないのだろう。」という考えが吹っ飛ぶ瞬間。
「現実」が持つ強大な力。体感を通さない「知識」の脆さ。
それを強く認識したことが仮想現実社会に知らずに生きている日本人の私が皆既日食を見に行って得た最大の財宝だった。
彼らは今ごろ、現地で入手しうるビールで乾杯しているのだろう。今回は「日食Tシャツ」を購入できているのだろうか?帰って来てからの土産話が楽しみだ。
どうやらザンビアは快晴らしい。21時を回っていて、すでに部分日蝕の映像になっていた。
TV放送を確認してみると、どうやらニュースステーションで皆既日蝕の中継映像を放映するようだ。
TVとサイトの2面作戦で皆既日蝕に望む。乾杯の準備・・・あれ?ビールがない。仕方ない。チューハイで代用する事にする。回線の関係で、本当にリアルタイムという訳にはいかない。早い回線を契約していれば・・・と少し後悔。
それでも画像は刻々と変化し、白い円だったものは欠け、線のようになり・・・一瞬kらくなったと思うとダイヤモンドリングが現れた。皆既になる瞬間、そして皆既が終わる瞬間、そういうほんの僅かの間しか見られない。ネットやTVではまるで取り上げていないが、このとき地表ではシャドウバンドという現象が生じる。干渉もうのような黒と白のすじが地表を走る。残念ながら私は見たことがない。皆既の瞬間、ダイヤモンドリングを見ることを断念しないと見ることができないものだから。日食観測のベテラン(?)でもなければ、あえてシャドウバンドを確認するの難しい。二度とない機会の二者選択。
場所を変えての多元中継をしているところは何度も皆既の瞬間をみることができる。これは凄い。ニュースステーションで中継したものに関してはさすがにTVの方が画像がよいのでそちらで堪能。
中空に浮かぶ黒い太陽。黒円の際に見える赤い光、プロミネンス。黒円から放射される白い光、コロナ。
TVカメラが捕らえる日常映像に関しては、我々はほとんどそれを「実際にそのようにみえる映像」だと認識している。しかし、こと天体現象や自然現象となると、なまじ知識があったりすると映された映像を加工されていない生の映像だとは思えなかったりする。実際、銀河のやオーロラなどはTVなどで通常見る映像は肉眼で見たものとはかなり違うのだ。
皆既日食の場合、そのような知識によって、逆に勘違いしてしまうことがある。あまりに不思議な映像ので、TVや写真で見た映像は見やすいように「加工」された映像だと考えてしまう。「写真に映っている映像と肉眼で見るものはかなり違う」だろうと。私がそうだった。
そんな私が日蝕ツアーに出かけ「写真そのままの」白く輝くコロナを望遠鏡などを使わないで見たときの衝撃は大きかった。「写真などで見なれている。実際は迫力も神秘さも別段大したものではないのだろう。」という考えが吹っ飛ぶ瞬間。
「現実」が持つ強大な力。体感を通さない「知識」の脆さ。
それを強く認識したことが仮想現実社会に知らずに生きている日本人の私が皆既日食を見に行って得た最大の財宝だった。
彼らは今ごろ、現地で入手しうるビールで乾杯しているのだろう。今回は「日食Tシャツ」を購入できているのだろうか?帰って来てからの土産話が楽しみだ。
いぬもあるけば・・・「6/21皆既日蝕@アフリカ」
2001年6月20日 以前、友人達が黄熱病の予防接種を受けたという話を書いた。彼らは無事に16日に日蝕ツアーに旅立ったようだ。直前に連絡をしようとしたが、連絡とれなかったので不安だった。メールで送られた南アフリカ共和国の喜望峰観光の映像を見る限り、健康そう。
さて、彼らにとってのメインイベント「皆既日食」は明日6/21。その場にいないと味わえない、現在の仮想現実技術では感じ取れないものを味わうのだろう。
日本にいる私は今回は諦めざるを得ない。が、映像だけならばリアルタイムで愉しめそうだ。VR技術が未完成だとしても、インターネットを使った中継は割と簡単な設備で行える。今回の皆既日蝕に際し、いくつかの団体がインターネットを使ったライブ中継を試みるようだ。
皆既のときにはアクセスが混雑するかもしれない。それでも雨の夜にリアルタイムで愉しめるというのは魅力的。明日は早く帰って彼らとともに皆既日蝕が見られたことをビールで乾杯しよう。
中継サイト->[リンク],[リンク]
さて、彼らにとってのメインイベント「皆既日食」は明日6/21。その場にいないと味わえない、現在の仮想現実技術では感じ取れないものを味わうのだろう。
日本にいる私は今回は諦めざるを得ない。が、映像だけならばリアルタイムで愉しめそうだ。VR技術が未完成だとしても、インターネットを使った中継は割と簡単な設備で行える。今回の皆既日蝕に際し、いくつかの団体がインターネットを使ったライブ中継を試みるようだ。
皆既のときにはアクセスが混雑するかもしれない。それでも雨の夜にリアルタイムで愉しめるというのは魅力的。明日は早く帰って彼らとともに皆既日蝕が見られたことをビールで乾杯しよう。
中継サイト->[リンク],[リンク]
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いぬもあるけば・・・「発言削除」
2001年6月19日 情けないというか、「すさまじ」というか、失望したというか・・・残念だ。
ネットで発言することはリスクがあることだが、発言削除も同様にリスクがある。それは意見の撤回という意思表示、考えの甘さの露呈、立場の保身など、掲示されていた発言を読んでいた者に負のイメージを与える。日記のように建前、個人的なものならばまだしも掲示板のようにその発言にレスを付けられるシステムだと特に。
ザバダックのオフィシャルサイトのBBSで、あの事件について吉良さんがコメントした日記に対する発言と吉良さん自身のレスが「発言削除」されていた。
考えること、思ったことは色々ある。時間がないので、後で更新します。
ネットで発言することはリスクがあることだが、発言削除も同様にリスクがある。それは意見の撤回という意思表示、考えの甘さの露呈、立場の保身など、掲示されていた発言を読んでいた者に負のイメージを与える。日記のように建前、個人的なものならばまだしも掲示板のようにその発言にレスを付けられるシステムだと特に。
ザバダックのオフィシャルサイトのBBSで、あの事件について吉良さんがコメントした日記に対する発言と吉良さん自身のレスが「発言削除」されていた。
考えること、思ったことは色々ある。時間がないので、後で更新します。
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いぬもあるけば・・・「週刊DIAS」
2001年6月18日 私の雑誌ではない。DIRASではなく、DIAS。本日創刊。
コンビニの雑誌棚で発見したとき、正直笑った。自分のハンドルの元ネタが雑誌名になるとは。創刊号というので、どんな新趣向の雑誌なのかと思ったら・・・30代のビヂネスピープルが対象という。男女を問わず、仕事と人生に前向きに取り組んでいる30歳と仮想読者としているらしい。でも、どこかで見たような内容なのだが?結局、よくあるアッパー系雑誌の1つのように見受けられる。
「男女を問わず」という前振りは面白いが、それが形になっていない。SPAの読者層とどう違うのだろう。それでもSPAに比べると、かなり高尚な雰囲気を漂わせている。紹介記事にしても、料理店などは料亭などレベルの高い店が載っている。新井薬師の「松扇」が紹介されていたのに驚いた。情報収集の目利きの高さを感じる。
が、紹介記事の振りの「すでに実力をもっているDIAS世代ならば云々」という言い回しに、仮想読者をヨイショし、かつ婉曲に追い立てる意図が鼻につく。どこかで読んだような言い回し・・・女性誌のそれだ。中吊り広告の安っぽいコピーと同じ雰囲気。実際、女性誌経験の編集者が関わっているようだ。
つまりこの雑誌は女性誌の編集方法で作られたビジネスピープル向け雑誌と考えられる。もしくは、編集者がまだその手法から抜け切れていないのか。雑誌のコンセプトに手法があっているのか?それはこれから判ることだろう。
取りあえず、ニヤリとさせて貰ったので、出版社のサイトにある「CLUB-DIAS」というコンテンツに入会してしまった。IDはもちろん・・・
ダリエさんのファンクラブサイトの掲示板でチョコレートが話題になっている。といっても、どこの店のが美味しいとかいう話題ではない。頭のいい犬たち(^-^;;が書き込みをしているのだが、彼らにとって危険な食べ物について話題が移った。そうなのだ、チョコレートは犬や猫にとって毒らしいのだ。体重の少ないものは、1シート食べさせただけで死に繋がることもあるようだ。[情報元サイト->www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/9285/index.html]
何も知らなければ、チョコレートそのものでなくてもチョコレートパンやチョコクッキーぐらい与えてしまう事もあるだろう。犬猫もチョコレートも共に人間にとって身近なもの。まさか人が食べて平気なものが犬や猫にとって毒なものがあろうとは。怖い話だ。
コンビニの雑誌棚で発見したとき、正直笑った。自分のハンドルの元ネタが雑誌名になるとは。創刊号というので、どんな新趣向の雑誌なのかと思ったら・・・30代のビヂネスピープルが対象という。男女を問わず、仕事と人生に前向きに取り組んでいる30歳と仮想読者としているらしい。でも、どこかで見たような内容なのだが?結局、よくあるアッパー系雑誌の1つのように見受けられる。
「男女を問わず」という前振りは面白いが、それが形になっていない。SPAの読者層とどう違うのだろう。それでもSPAに比べると、かなり高尚な雰囲気を漂わせている。紹介記事にしても、料理店などは料亭などレベルの高い店が載っている。新井薬師の「松扇」が紹介されていたのに驚いた。情報収集の目利きの高さを感じる。
が、紹介記事の振りの「すでに実力をもっているDIAS世代ならば云々」という言い回しに、仮想読者をヨイショし、かつ婉曲に追い立てる意図が鼻につく。どこかで読んだような言い回し・・・女性誌のそれだ。中吊り広告の安っぽいコピーと同じ雰囲気。実際、女性誌経験の編集者が関わっているようだ。
つまりこの雑誌は女性誌の編集方法で作られたビジネスピープル向け雑誌と考えられる。もしくは、編集者がまだその手法から抜け切れていないのか。雑誌のコンセプトに手法があっているのか?それはこれから判ることだろう。
取りあえず、ニヤリとさせて貰ったので、出版社のサイトにある「CLUB-DIAS」というコンテンツに入会してしまった。IDはもちろん・・・
ダリエさんのファンクラブサイトの掲示板でチョコレートが話題になっている。といっても、どこの店のが美味しいとかいう話題ではない。頭のいい犬たち(^-^;;が書き込みをしているのだが、彼らにとって危険な食べ物について話題が移った。そうなのだ、チョコレートは犬や猫にとって毒らしいのだ。体重の少ないものは、1シート食べさせただけで死に繋がることもあるようだ。[情報元サイト->www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/9285/index.html]
何も知らなければ、チョコレートそのものでなくてもチョコレートパンやチョコクッキーぐらい与えてしまう事もあるだろう。犬猫もチョコレートも共に人間にとって身近なもの。まさか人が食べて平気なものが犬や猫にとって毒なものがあろうとは。怖い話だ。
いぬもあるけば・・・「端から端」
2001年6月17日 JRに都区内フリーキップという名のトクトクきっぷがある。都区内一日乗り放題のキップだ。山手線内に出て2〜3回乗り降りしたら元が取れる。普通はそういう使い方をするキップ。
今回はそれとは違う使い方。乗った駅は都内南端の蒲田駅、降りたのは都内東端の小岩。往復するだけで元が取れる。ラッキー!え゛?
初めて小岩駅を降りた。隣の新小岩駅ならば、10年ぐらい前にK’s-Cafeという草の根BBSのオフ会で訪れた記憶があるのだが。あ、痛。イタイ思い出が浮かんできてしまった。
目的地はライブハウス「M7」。ここでPONPOKOというグループ主催のクローズド・ライブが行われる。一度しか地図を見ていないので感で探す。北口を出て、上にあがって少し歩いてから右に・・・。駅前商店街は大勢の人がいた。老若男女様々。人が多いことにも驚いたが、その年齢人口比率のバランスの良さに驚いた。色々な世代が満遍無くいる。子供にとっても、老人にとっても暮らしやすい街なのかもしれないな・・・などと思った。
どうにか迷うことなく会場に着いた。ライブは14:00から始まっている。2階の受付でチェック受けていると、聴いたことのある声が。てつやさんやどぶさんなどぱぶりかメンバーの声だ。どうやら盛り上がっているらしい。ドアを開けて会場に入ると、じゃんけんゲームで盛り上がっていた。
今回のライブはライブだけではなくステージの合間にゲームもあるライブイベント。出演バンドは7バンド。14:00〜21:30までの長丁場。飲み放題、食べ放題。素晴らしい。私が到着したときには最初のバンドの演奏が終っていた。
ゲームが終わって、次のバンドFire Crackersの演奏。懐かし洋楽カバー。洋楽に詳しくない私にとっては、ラジオで聴いたことがあるかも程度。私はこのころから、呑みが加速して、ワインをかぱかぱ呑み出す。ぱぶりかのどぶさんが心配。歌えるんだろうか?というぐらいボルテージが上がっている。酔っぱらっているとも言いますな。
アコギ一本、西坂貴大さんのライブ。実力のある、柔らかい歌声。「がんばれ」という曲の歌詞に共感。それしか言えないから言うよ。がんばれ・・・。4番目、PONPOKO’S はノリの良さが印象的。
5番目がぱぶりかの演奏。ステージ前に移動して拝聴。演奏曲目はお気に入りばかりで嬉しかった。まぁ、お気に入りじゃない曲というのがあまりないのではあるが。どぶさんも無事に歌えたので良かった(結構、心配していたので)。てつやさん、ぴざさんそしてかんぞうさんも楽しそうだったし。でも、演奏前にテンションを上げすぎたのか、終わった後にヘロヘロになっていた人が数名。
RONDERTSはミョーなテンション。倒立しながら歌ってる・・・。久々に間近に見るモヒカン・・・。最後のバンドはAnimal Cookie。実力のあるバンド。だが、今回で暫く活動休止だそうだ。でも、おめでた故。産休ではしかたない。
(記憶が確かなら)最後にビンゴ大会。素晴らしい。見事に・・・何故最後までリーチにもならない<自分
目の前でグルーピー仲間のcheapさんが優勝しているというのが、また。運を吸い取られてしまったらしい。ジュルジュル・・・。そう言えば、昔TRPGをやっているときでも「サトラレ」ではないが、他人に運を分けていたような・・・。賞品はなんですか?バッグですか・・・いいなぁ。
暗いところだと時間が経つのが判らない。21:30なんてあっという間。色々な種類のバンドが詰まった幕の内のような楽しいイベントだった。次のぱぶりかん活動は7/15かな。
(この後、自室に辿り着いてから、頭痛に悩まされる。やっぱり呑み過ぎてた・・・)
今回はそれとは違う使い方。乗った駅は都内南端の蒲田駅、降りたのは都内東端の小岩。往復するだけで元が取れる。ラッキー!え゛?
初めて小岩駅を降りた。隣の新小岩駅ならば、10年ぐらい前にK’s-Cafeという草の根BBSのオフ会で訪れた記憶があるのだが。あ、痛。イタイ思い出が浮かんできてしまった。
目的地はライブハウス「M7」。ここでPONPOKOというグループ主催のクローズド・ライブが行われる。一度しか地図を見ていないので感で探す。北口を出て、上にあがって少し歩いてから右に・・・。駅前商店街は大勢の人がいた。老若男女様々。人が多いことにも驚いたが、その年齢人口比率のバランスの良さに驚いた。色々な世代が満遍無くいる。子供にとっても、老人にとっても暮らしやすい街なのかもしれないな・・・などと思った。
どうにか迷うことなく会場に着いた。ライブは14:00から始まっている。2階の受付でチェック受けていると、聴いたことのある声が。てつやさんやどぶさんなどぱぶりかメンバーの声だ。どうやら盛り上がっているらしい。ドアを開けて会場に入ると、じゃんけんゲームで盛り上がっていた。
今回のライブはライブだけではなくステージの合間にゲームもあるライブイベント。出演バンドは7バンド。14:00〜21:30までの長丁場。飲み放題、食べ放題。素晴らしい。私が到着したときには最初のバンドの演奏が終っていた。
ゲームが終わって、次のバンドFire Crackersの演奏。懐かし洋楽カバー。洋楽に詳しくない私にとっては、ラジオで聴いたことがあるかも程度。私はこのころから、呑みが加速して、ワインをかぱかぱ呑み出す。ぱぶりかのどぶさんが心配。歌えるんだろうか?というぐらいボルテージが上がっている。酔っぱらっているとも言いますな。
アコギ一本、西坂貴大さんのライブ。実力のある、柔らかい歌声。「がんばれ」という曲の歌詞に共感。それしか言えないから言うよ。がんばれ・・・。4番目、PONPOKO’S はノリの良さが印象的。
5番目がぱぶりかの演奏。ステージ前に移動して拝聴。演奏曲目はお気に入りばかりで嬉しかった。まぁ、お気に入りじゃない曲というのがあまりないのではあるが。どぶさんも無事に歌えたので良かった(結構、心配していたので)。てつやさん、ぴざさんそしてかんぞうさんも楽しそうだったし。でも、演奏前にテンションを上げすぎたのか、終わった後にヘロヘロになっていた人が数名。
RONDERTSはミョーなテンション。倒立しながら歌ってる・・・。久々に間近に見るモヒカン・・・。最後のバンドはAnimal Cookie。実力のあるバンド。だが、今回で暫く活動休止だそうだ。でも、おめでた故。産休ではしかたない。
(記憶が確かなら)最後にビンゴ大会。素晴らしい。見事に・・・何故最後までリーチにもならない<自分
目の前でグルーピー仲間のcheapさんが優勝しているというのが、また。運を吸い取られてしまったらしい。ジュルジュル・・・。そう言えば、昔TRPGをやっているときでも「サトラレ」ではないが、他人に運を分けていたような・・・。賞品はなんですか?バッグですか・・・いいなぁ。
暗いところだと時間が経つのが判らない。21:30なんてあっという間。色々な種類のバンドが詰まった幕の内のような楽しいイベントだった。次のぱぶりかん活動は7/15かな。
(この後、自室に辿り着いてから、頭痛に悩まされる。やっぱり呑み過ぎてた・・・)
いぬもあるけば・・・「記憶力ゲーム」
2001年6月16日 8/4の予定が決まった。私の存在確率はその日、神戸で高いだろう。夕方からはチキンジョージで最も存在確率が高くなるだろう。・・・多分。
紀伊国屋書店で「dancyu全部うまい店」という情報ムック本を購入。マニュアル君なので〜、多分。
知人がお勧めしていた「みんなのいえ」を観た。笑えた。細かいところを見てしまうとアラもあるだろう。とりあえずコメディとして楽しめたのだからOKだ。媚びた部分はパロディなのだろう。多分。
多分に日本人向けの映画だと思うんだけどなぁ。外国人のロールプレイをして、彼らのレベルの知識とセンスつまり彼らの視点で見ると変わって見えるかも。多分。
新宿中央郵便局でお金を降ろそうとキャッシュディスペンサーの列に並んだ。順番が来たので空いたところに行くと取りだし口が開いたまま。はて?・・・よく見ると千円札が1枚。取り忘れだ。急いで、それを取って持ち主を捜すために郵便局を飛び出す。記憶力ゲームだ。確かスーツ姿の小太りした40代前後の男性・・・・。ここは新宿西口。そんな人はいくらでも。
店に入ってしまっていたら判り様が無い。諦めて局員に連絡を取ろうとすると、ディスペンサー近くで慌てている男性が。あ、あの男性だ。記憶違いは上着を脱いでいたところ。Yシャツ姿だったことが抜けていた。声を掛け、振り向いたその顔が、すれ違ったときに見た顔のイメージと一致したので千円札を渡した。男性はほっとした表情を浮かべた。
「なんで取り忘れるかなぁ」と思いながら、払い出し。3枚あるはずが、2枚しかない?はて?・・・一枚が捲れて手前、視界に隠れる位置に張り付いている。なるほど、そういうことか。つまり彼がうっかりしていたというだけでなく、とり忘れを発生させやすい機械構造だと。・・・だめじゃん(*_*; 取り忘れ時の警報も大人しいので、急いでいれば気が付かない。これって設計ミスな気が〜。取りあえず、利用するときは気を付けよう。3千円降ろしたつもりが2千円しかないというのは痛すぎる。
ロッテリアで軽く腹ごなししてから、馴染みの居酒屋に。大抵、土曜日は空いているので電話連絡無しに飛びこんだ。ギャ、宴会してる・・・。どうにかギリギリ座ることが出来た。補助椅子・・・。
と、ともかく酒は鶴の友純米酒。つまみは冷奴、釜揚げ桜海老、ウドの炒め物、蕗のお浸し、キャベツの浅漬け、肉じゃが、牛すじ網焼きなど。旨い。
来週土曜にトークライブがあるとのこと。店に有機野菜を提供している川越の農業家のお話。農業に対して関心があるので聞くことにした。新じゃがをかじりながら、酒をのみながら。
また新宿に戻って、こんどは洋酒を飲む。西口方面にあるバー。気軽に口当たりのよいのが呑みたかったので、「スプリングバンク10年」を。店主が変わっていた。寂しいものだ。前の人はどこにいったのだろう。ここ半年ほど顔を出していかなった自分に尋ねたり、語ったりする資格はないのかもしれないが。寂しさもスパイス。甘いモルトの香りと塩辛さが演出。それも一興。
幸せな気分で駅に。ありがとう。
紀伊国屋書店で「dancyu全部うまい店」という情報ムック本を購入。マニュアル君なので〜、多分。
知人がお勧めしていた「みんなのいえ」を観た。笑えた。細かいところを見てしまうとアラもあるだろう。とりあえずコメディとして楽しめたのだからOKだ。媚びた部分はパロディなのだろう。多分。
多分に日本人向けの映画だと思うんだけどなぁ。外国人のロールプレイをして、彼らのレベルの知識とセンスつまり彼らの視点で見ると変わって見えるかも。多分。
新宿中央郵便局でお金を降ろそうとキャッシュディスペンサーの列に並んだ。順番が来たので空いたところに行くと取りだし口が開いたまま。はて?・・・よく見ると千円札が1枚。取り忘れだ。急いで、それを取って持ち主を捜すために郵便局を飛び出す。記憶力ゲームだ。確かスーツ姿の小太りした40代前後の男性・・・・。ここは新宿西口。そんな人はいくらでも。
店に入ってしまっていたら判り様が無い。諦めて局員に連絡を取ろうとすると、ディスペンサー近くで慌てている男性が。あ、あの男性だ。記憶違いは上着を脱いでいたところ。Yシャツ姿だったことが抜けていた。声を掛け、振り向いたその顔が、すれ違ったときに見た顔のイメージと一致したので千円札を渡した。男性はほっとした表情を浮かべた。
「なんで取り忘れるかなぁ」と思いながら、払い出し。3枚あるはずが、2枚しかない?はて?・・・一枚が捲れて手前、視界に隠れる位置に張り付いている。なるほど、そういうことか。つまり彼がうっかりしていたというだけでなく、とり忘れを発生させやすい機械構造だと。・・・だめじゃん(*_*; 取り忘れ時の警報も大人しいので、急いでいれば気が付かない。これって設計ミスな気が〜。取りあえず、利用するときは気を付けよう。3千円降ろしたつもりが2千円しかないというのは痛すぎる。
ロッテリアで軽く腹ごなししてから、馴染みの居酒屋に。大抵、土曜日は空いているので電話連絡無しに飛びこんだ。ギャ、宴会してる・・・。どうにかギリギリ座ることが出来た。補助椅子・・・。
と、ともかく酒は鶴の友純米酒。つまみは冷奴、釜揚げ桜海老、ウドの炒め物、蕗のお浸し、キャベツの浅漬け、肉じゃが、牛すじ網焼きなど。旨い。
来週土曜にトークライブがあるとのこと。店に有機野菜を提供している川越の農業家のお話。農業に対して関心があるので聞くことにした。新じゃがをかじりながら、酒をのみながら。
また新宿に戻って、こんどは洋酒を飲む。西口方面にあるバー。気軽に口当たりのよいのが呑みたかったので、「スプリングバンク10年」を。店主が変わっていた。寂しいものだ。前の人はどこにいったのだろう。ここ半年ほど顔を出していかなった自分に尋ねたり、語ったりする資格はないのかもしれないが。寂しさもスパイス。甘いモルトの香りと塩辛さが演出。それも一興。
幸せな気分で駅に。ありがとう。
いぬもあるけば・・・「LivePainting」
2001年6月15日 「LivePainting Music Mix vol.7」というイベントを観に行った。会場は表参道ラパン・エ・アロ。以前、ぱぶりかが出演したイベントの会場。淡い記憶を頼りに開演30分後に到着。
会場入り口のドアを開けると、ピアノの音とリコーダーの音。中に入ると、奥のステージの壁に4畳近くある大きさの紙が貼られていて、黒い服装の男性が黙々と色を塗りたくっていた。
木村タカヒロという画家が行っている即興絵画イベント。即興演奏を行うミュージシャンとのコラボレーション。今回の共演ミュージシャンはダリエさんと栗コーダーカルテットから栗原さんと関島さんの3名。即興演奏された音から生まれるイメージが刷毛を走らせ、それから生まれた絵/パターンに触発されて音が奏でられる・・・という「正帰還」のシステムがコンセプトだと思われる。
その試みは面白いけれど、コンセプト通りの展開になっていたとはちょっと言い難かった。「即興」と「初対面」が混同されているのが原因かもしれない。絵画と音楽は方法や展開の仕方が異なっている。絵画の場合、やろうと思えば無から始められるのに対し、音楽の場合、最低限の構成要素が必要となる。それさえも投げ出して楽器に向かうならば、発せられるのは音楽ではなくノイズでしかなくなってしまう。はて?・・・ということは、分けるならば描画は肉体的な行為で、演奏は言語的な行為ということ?閑話休題。
イベントの前半はそんなわけで、「即興」というより「初対面」がテーマだった感じ。その場にいる人達がお互いに探りを入れ合っている状態。おそらくはその「探り」も木村さんが望んでいることなのだろう。「他者との対面」−「探り合い」−「場の形成」。
「描かれたもの」は最初は何だか判らない模様のようなものだった。黄色、オレンジ、赤が紙面に散らばっている、のたくっている。私は途中から入ってきたので白い紙の状態から観ていない。初めて観たときに感じたものは「森や林のイメージ」だった。色彩からすればとてもそれがイメージされるはずないのだが、その場で奏でられていた音楽によるものなのか、私にはそう感じられた。そしてそれは終始、変わらなかった。
開始1時間ほどで休憩になった。広い紙に浮かぶのは幾つかの顔のパターン。ハッキリと見えるわけではない。ある空隙を眼窩だと意識すると浮かび上がってくる顔のイメージ。ロールシャッハテストを受けているような、エッシャーなどのだまし絵というか錯視の絵画を観ているような奇妙な感覚。あれは口か?あれは目か?正面を向いている?横を向いている?人間の一番最初のパターン認識は人間の顔の表情だという話がある。保護者が今、どんな表情をしているか?笑っているか?怒っているか?私が「描かれたもの」の中に人の顔を見るのはそういうバイアスがあるためだろう。
休憩が終わった。私は新しい紙に新しいものを描くのだと思っていた。休憩は1つのイメージが出来上がったために取ったのだと、この作品は完成しているのだと思っていた。彼は同じ紙に色を重ねていった。それでも私はまだ塗り重ねはディテールを更に深めるためのものだと、完成度を高めるためのものだと思っていた。「ならば、あの「顔」は更にハッキリと現れてくるのだろう。あの意味深な空隙も何かの構成要素として塞がれてゆくのだろう」と。
あっと思ったのは、浮かんでいた「顔」が塗りつぶされたとき。それまで浮かんでいたものが壊され、潰された。そのときの彼の意図がどこにあったのか、尋ねることはできなかったので知ることは出来ない。行為に視点を置けば、すでに形作られていたものを破壊し、違うもの新たなものを生み出していたといえる。紙の上で起きた出来事に視点を置けば、それは将に「出来事」で、休憩時にあったイメージは確かにそのときにはあったのだ。そして今、この瞬間には違うイメージがある。しかし、以前のイメージを受け取った人にとって、その前のイメージも同等のものとして「在る」。そして現在のイメージも過去のイメージと同様に「無い」。
「LivePainting」というのは、そういうものを感じるイベントなのかもしれない。そして、ここに於いて、即興演奏という「音楽」との繋がりが、共通のものが浮かび上がる。
心地よい音楽とビールのお陰で意識が飛んだ。気が付くとイベントは終了していた。画家が向かっていない「描かれたもの」は猛獣狩りでハントされた獣の剥製。かつて生きていたもの。
青山通りにでて、渋谷駅まで歩いた。勢い余ってセンター街。宇田川町の大向幼稚園も過ぎたところでマヨネーズチャーシュー麺を食べる。480円ナリ。
店は混んでいた。カウンターにはチーマー風の男が二人。奥のテーブルには高校生だろうこれまた、これから朝まで遊び倒すのだろう男女の集団。
一人の女の子が前の道を歩く二人連れに気付く。両方とも知り合いらしい。「あ、どうしたのぉ?これからホテル行くのぉ?」
カウンターでは先ほどの男の一人が携帯で知り合いと話込んでいる様子。「えっ?中学生?マジかよ〜」
いかにもセンター街付近らしいお客の会話にお腹一杯。表参道との物理的距離を考えると更に感慨もひとしお。いや、うらやましがっているんですよ、私は。
お腹も一杯になったところで、駅に向かう。「ハチ公口は相変わらず込んでいるなぁ。」などと思いながら歩いている私の足を止める声。ストリートライブのようだ。低く説得力のある歌声に惹かれて、人溜まりに近づく。女性がヴォーカル、男性がギターの二人組み。アンプを持参していた。雨が止んでよかったね。取り巻きの人達の何人かはどうやらファンらしい、彼らのチラシを配っていた。手にとってみる。「バーゲンズ」というのが彼らのユニット名らしい。大阪圏で流れた「ほっかほっか亭」のCMタイアップが切っ掛けであちらでブレイク中とのこと。聞いた歌はちょっとむずがゆくなるガンバレソング。足を止めてみている人達の様子を観る限り、真面目に聞き入っている。魅力ある声がするっと聞かせているのだろう。ここで会ったのも何かの縁。チェックしてみよう。大阪発信となると「花*花」や「川崎洋子」などを思い出す。どうなるかな。[リンク]
会場入り口のドアを開けると、ピアノの音とリコーダーの音。中に入ると、奥のステージの壁に4畳近くある大きさの紙が貼られていて、黒い服装の男性が黙々と色を塗りたくっていた。
木村タカヒロという画家が行っている即興絵画イベント。即興演奏を行うミュージシャンとのコラボレーション。今回の共演ミュージシャンはダリエさんと栗コーダーカルテットから栗原さんと関島さんの3名。即興演奏された音から生まれるイメージが刷毛を走らせ、それから生まれた絵/パターンに触発されて音が奏でられる・・・という「正帰還」のシステムがコンセプトだと思われる。
その試みは面白いけれど、コンセプト通りの展開になっていたとはちょっと言い難かった。「即興」と「初対面」が混同されているのが原因かもしれない。絵画と音楽は方法や展開の仕方が異なっている。絵画の場合、やろうと思えば無から始められるのに対し、音楽の場合、最低限の構成要素が必要となる。それさえも投げ出して楽器に向かうならば、発せられるのは音楽ではなくノイズでしかなくなってしまう。はて?・・・ということは、分けるならば描画は肉体的な行為で、演奏は言語的な行為ということ?閑話休題。
イベントの前半はそんなわけで、「即興」というより「初対面」がテーマだった感じ。その場にいる人達がお互いに探りを入れ合っている状態。おそらくはその「探り」も木村さんが望んでいることなのだろう。「他者との対面」−「探り合い」−「場の形成」。
「描かれたもの」は最初は何だか判らない模様のようなものだった。黄色、オレンジ、赤が紙面に散らばっている、のたくっている。私は途中から入ってきたので白い紙の状態から観ていない。初めて観たときに感じたものは「森や林のイメージ」だった。色彩からすればとてもそれがイメージされるはずないのだが、その場で奏でられていた音楽によるものなのか、私にはそう感じられた。そしてそれは終始、変わらなかった。
開始1時間ほどで休憩になった。広い紙に浮かぶのは幾つかの顔のパターン。ハッキリと見えるわけではない。ある空隙を眼窩だと意識すると浮かび上がってくる顔のイメージ。ロールシャッハテストを受けているような、エッシャーなどのだまし絵というか錯視の絵画を観ているような奇妙な感覚。あれは口か?あれは目か?正面を向いている?横を向いている?人間の一番最初のパターン認識は人間の顔の表情だという話がある。保護者が今、どんな表情をしているか?笑っているか?怒っているか?私が「描かれたもの」の中に人の顔を見るのはそういうバイアスがあるためだろう。
休憩が終わった。私は新しい紙に新しいものを描くのだと思っていた。休憩は1つのイメージが出来上がったために取ったのだと、この作品は完成しているのだと思っていた。彼は同じ紙に色を重ねていった。それでも私はまだ塗り重ねはディテールを更に深めるためのものだと、完成度を高めるためのものだと思っていた。「ならば、あの「顔」は更にハッキリと現れてくるのだろう。あの意味深な空隙も何かの構成要素として塞がれてゆくのだろう」と。
あっと思ったのは、浮かんでいた「顔」が塗りつぶされたとき。それまで浮かんでいたものが壊され、潰された。そのときの彼の意図がどこにあったのか、尋ねることはできなかったので知ることは出来ない。行為に視点を置けば、すでに形作られていたものを破壊し、違うもの新たなものを生み出していたといえる。紙の上で起きた出来事に視点を置けば、それは将に「出来事」で、休憩時にあったイメージは確かにそのときにはあったのだ。そして今、この瞬間には違うイメージがある。しかし、以前のイメージを受け取った人にとって、その前のイメージも同等のものとして「在る」。そして現在のイメージも過去のイメージと同様に「無い」。
「LivePainting」というのは、そういうものを感じるイベントなのかもしれない。そして、ここに於いて、即興演奏という「音楽」との繋がりが、共通のものが浮かび上がる。
心地よい音楽とビールのお陰で意識が飛んだ。気が付くとイベントは終了していた。画家が向かっていない「描かれたもの」は猛獣狩りでハントされた獣の剥製。かつて生きていたもの。
青山通りにでて、渋谷駅まで歩いた。勢い余ってセンター街。宇田川町の大向幼稚園も過ぎたところでマヨネーズチャーシュー麺を食べる。480円ナリ。
店は混んでいた。カウンターにはチーマー風の男が二人。奥のテーブルには高校生だろうこれまた、これから朝まで遊び倒すのだろう男女の集団。
一人の女の子が前の道を歩く二人連れに気付く。両方とも知り合いらしい。「あ、どうしたのぉ?これからホテル行くのぉ?」
カウンターでは先ほどの男の一人が携帯で知り合いと話込んでいる様子。「えっ?中学生?マジかよ〜」
いかにもセンター街付近らしいお客の会話にお腹一杯。表参道との物理的距離を考えると更に感慨もひとしお。いや、うらやましがっているんですよ、私は。
お腹も一杯になったところで、駅に向かう。「ハチ公口は相変わらず込んでいるなぁ。」などと思いながら歩いている私の足を止める声。ストリートライブのようだ。低く説得力のある歌声に惹かれて、人溜まりに近づく。女性がヴォーカル、男性がギターの二人組み。アンプを持参していた。雨が止んでよかったね。取り巻きの人達の何人かはどうやらファンらしい、彼らのチラシを配っていた。手にとってみる。「バーゲンズ」というのが彼らのユニット名らしい。大阪圏で流れた「ほっかほっか亭」のCMタイアップが切っ掛けであちらでブレイク中とのこと。聞いた歌はちょっとむずがゆくなるガンバレソング。足を止めてみている人達の様子を観る限り、真面目に聞き入っている。魅力ある声がするっと聞かせているのだろう。ここで会ったのも何かの縁。チェックしてみよう。大阪発信となると「花*花」や「川崎洋子」などを思い出す。どうなるかな。[リンク]
いぬもあるけば・・・「ギネス」
2001年6月14日 「小泉内閣メールマガジン」の読者登録数、ギネスブックものらしい。
雨降る中、原宿駅を降り、「SCRUFFY MARPHY’S」というアイリッシュパブに向かった。店の前では開場を待つ人の群。その中に山口から通りかかった(?)先輩発見。
今日はキルシェのファンサポート企画参加者限定ライブ。アイリッシュパブを貸し切りし、歌とおしゃべりを楽しむ企画だった。ファンサポート企画とはファンクラブのようなもの。ファンクラブなんて名前は恐れ多いとこんな名前で立ち上げたキルシェお手製の企画。
場所取りしてから早速カウンターで「ギネス」と「フィッシュ&チップス」を頼む。黒ビールをチビチビやったり持ってきていたモバイル機器でキルシェのサイトを覗いたりしながら、開演を待った。開演直前にやってきたフィッシュ&チップスのボリュームにちょっと驚く。
そうこうしているうちに、演奏が始まった。ヴォーカル、ギター、アコーディオンそしてヴァイオリンの4人構成。アイリッシュパブということでヴァイオリンというよりもフィドルと言った方がいいのかしらん。彼らの歌だけでなく、ザバダックのカバーやアイリッシュドラッドも演奏された。興に乗って、踊り出す人は・・・残念ながらいなかった。
全然減らないポテトに対抗するために、2杯目は「マーフィーズ」に。注がれるのを待っているときにじゃんけん大会が始まった。メンバーが持ち寄ったアイテムが賞品。・・・一回戦敗退。じゃんけんに余り強くないことを再確認。
どこかで見たことがある人と挨拶。というか挨拶しかできない。この会場にいる人は全てキルシェのファン。以前のライブ会場で顔を合わせた人もたくさんいる。自分は名前を覚えるのは苦手だが、顔のパターン認識は得意だと思っていた。なのに判らない。親しみを込めた笑顔に返す私の笑顔はぎこちなく、どこか引きつっていた。「もしや、別の知り合いの方と人違いされているのでは?」などという考えも浮かぶ。結局、居づらくなって、席に戻る。ヨワヨワ。今、思えば気にしないで交流を深めれば良かった。勘違いでもなんでもどうせ同じファンなのだから。
元の席に戻ってから引き続き演奏やメンバーのおしゃべりを楽しんだ。それにしてもポテトが減らない。結局、ライブが終わるまで残ってしまった。
ライブそのものが終わって、第2部に移るのかと思ったら参加者の皆さん、いそいそと帰ってしまう。翌日も平日ということで帰らなければならないのだろうが、ちょっと腑に落ちない、物足りない。今回のイベントはライブだけが目的だったのだろうか?ライブそのものに関心が傾いてしまったため、ファンの知り合いを増やしたり、話をしたりする機会であることを忘れていたのではないだろうか?話をする相手にはキルシェのメンバーも含まれる。自問しつつ家路についた。
雨降る中、原宿駅を降り、「SCRUFFY MARPHY’S」というアイリッシュパブに向かった。店の前では開場を待つ人の群。その中に山口から通りかかった(?)先輩発見。
今日はキルシェのファンサポート企画参加者限定ライブ。アイリッシュパブを貸し切りし、歌とおしゃべりを楽しむ企画だった。ファンサポート企画とはファンクラブのようなもの。ファンクラブなんて名前は恐れ多いとこんな名前で立ち上げたキルシェお手製の企画。
場所取りしてから早速カウンターで「ギネス」と「フィッシュ&チップス」を頼む。黒ビールをチビチビやったり持ってきていたモバイル機器でキルシェのサイトを覗いたりしながら、開演を待った。開演直前にやってきたフィッシュ&チップスのボリュームにちょっと驚く。
そうこうしているうちに、演奏が始まった。ヴォーカル、ギター、アコーディオンそしてヴァイオリンの4人構成。アイリッシュパブということでヴァイオリンというよりもフィドルと言った方がいいのかしらん。彼らの歌だけでなく、ザバダックのカバーやアイリッシュドラッドも演奏された。興に乗って、踊り出す人は・・・残念ながらいなかった。
全然減らないポテトに対抗するために、2杯目は「マーフィーズ」に。注がれるのを待っているときにじゃんけん大会が始まった。メンバーが持ち寄ったアイテムが賞品。・・・一回戦敗退。じゃんけんに余り強くないことを再確認。
どこかで見たことがある人と挨拶。というか挨拶しかできない。この会場にいる人は全てキルシェのファン。以前のライブ会場で顔を合わせた人もたくさんいる。自分は名前を覚えるのは苦手だが、顔のパターン認識は得意だと思っていた。なのに判らない。親しみを込めた笑顔に返す私の笑顔はぎこちなく、どこか引きつっていた。「もしや、別の知り合いの方と人違いされているのでは?」などという考えも浮かぶ。結局、居づらくなって、席に戻る。ヨワヨワ。今、思えば気にしないで交流を深めれば良かった。勘違いでもなんでもどうせ同じファンなのだから。
元の席に戻ってから引き続き演奏やメンバーのおしゃべりを楽しんだ。それにしてもポテトが減らない。結局、ライブが終わるまで残ってしまった。
ライブそのものが終わって、第2部に移るのかと思ったら参加者の皆さん、いそいそと帰ってしまう。翌日も平日ということで帰らなければならないのだろうが、ちょっと腑に落ちない、物足りない。今回のイベントはライブだけが目的だったのだろうか?ライブそのものに関心が傾いてしまったため、ファンの知り合いを増やしたり、話をしたりする機会であることを忘れていたのではないだろうか?話をする相手にはキルシェのメンバーも含まれる。自問しつつ家路についた。
いぬもあるけば・・・「訃報」
2001年6月13日 先日、チャット仲間の訃報を知った。まだ30代。急性心不全。
悲しい知らせだ。そしてそれをもっと悲しくしたのが、その人が無くなったのが4月上旬だったということ。
亡くなって二ヶ月以上経ってようやく知ったのだ。それでもまだ知ることができたのだから良い方だろう。
今日、仲間からメールが来た。臨時掲示板を設定して、故人への言葉を寄せる場が作られたとこと。ご焼香に行けない各地の仲間が寄せ書きする。ネット人格としての友人に対して、相応しい弔意の表明かもしれない。テキストを通じて知り合い、話し合った友人への手向けはやはりテキストとしての「語り」だろう。
悲しい知らせだ。そしてそれをもっと悲しくしたのが、その人が無くなったのが4月上旬だったということ。
亡くなって二ヶ月以上経ってようやく知ったのだ。それでもまだ知ることができたのだから良い方だろう。
今日、仲間からメールが来た。臨時掲示板を設定して、故人への言葉を寄せる場が作られたとこと。ご焼香に行けない各地の仲間が寄せ書きする。ネット人格としての友人に対して、相応しい弔意の表明かもしれない。テキストを通じて知り合い、話し合った友人への手向けはやはりテキストとしての「語り」だろう。
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いぬもあるけば・・・「呪言」
2001年6月12日 ミーハーなので、「小泉内閣メールマガジン」に読者登録した。
昨日、歩き煙草をしていた男に発した言葉を反省。あれは呪言だった。
怒鳴りもせず、嘆きもせず、感情を抑え、淡々と発した言葉。瞳に微か浮かぶ侮蔑。逆上したりバカにしたりする防衛機構を働かせられる機会を奪い、かつ忘れることが出来ないように。「悪の華」のボードレールの性格形成を決定づけた、万引きした幼少のボードレールを捕まえた店の親父の制約(ギアス)の呪文「オマエハ、『ドロボウ』ダ」の如く。怒鳴ったり、殴ったりというのは行為者の感情の発露でしかない。対象がその感情を受け入れるとは限らない。無視することも可能だ。しかし、理性と蔑みの感情がコンプレックスされた言の葉は毒薬を塗った短刀の如きもの。
尤も、同情の余地がないところでもある。歩いていた私が振っていた手の高さは子供の顔の高さとそれほど差がない。走り回る子供がぶつかる可能性がないとは言えない。もし顔や目などに当たったとき、彼はどう責任を取るのか?
飛び出し事故でも運転手の前方不注意が指摘されるように、歩き煙草をしている人の持つ加害可能性と発生時の責任は大きい。歩き煙草をしている人はまずないと考えているだろう。が、現に私の左には痕がある。この1つの事例の存在は別の事故の可能性を明らかにしている。
煙草を吸う行為。何故、煙草を吸い続けるのだろうか?多くの依存症と同様に、煙草を吸うという行為も代償行為としてのそれである。真の欲求の代わり。薬物中毒としてのニコチン中毒ならば別の取得方法でもよいはずだ。そうではない。吸うという行為そのものが代償行為なのだ。それは精神分析的には、口唇期の欲求不満から来ると考えられる。つまり、「ママのおっぱい」の代わりとしての煙草だ。
自立を重んじるアメリカで煙草が避けられる様になったのは、単に本人の健康を損ね、死期を早め、そして他人にも害をまき散らすからだけではない。「おしゃぶり」がなければ精神が安定しない弱さ、止めることが出来ない自己管理能力の無さが問題になっているのだ。(この考え自体も病的なのであるが)
そんな訳で私の頭の中では「煙草=おしゃぶり」という認識エンジンが存在しており、それが働き出すとポスターやCMで格好良い男が煙草を吸っている姿に「おしゃぶり」をくわえている滑稽な姿が二重写し重なって見えてくる。
特に街中を歩きながら煙草を吸わずに居られない人を見ると、すぐに認識エンジンが起動して、「おしゃぶり」をくわえずには居られない人に変換される。煙草を加えて歩いているスーツ姿の大の大人がまるでお遊戯している幼稚園児のように見えてくる・・・。
歩き煙草をする人に対し、「呪言」を言ってみた。
昨日、歩き煙草をしていた男に発した言葉を反省。あれは呪言だった。
怒鳴りもせず、嘆きもせず、感情を抑え、淡々と発した言葉。瞳に微か浮かぶ侮蔑。逆上したりバカにしたりする防衛機構を働かせられる機会を奪い、かつ忘れることが出来ないように。「悪の華」のボードレールの性格形成を決定づけた、万引きした幼少のボードレールを捕まえた店の親父の制約(ギアス)の呪文「オマエハ、『ドロボウ』ダ」の如く。怒鳴ったり、殴ったりというのは行為者の感情の発露でしかない。対象がその感情を受け入れるとは限らない。無視することも可能だ。しかし、理性と蔑みの感情がコンプレックスされた言の葉は毒薬を塗った短刀の如きもの。
尤も、同情の余地がないところでもある。歩いていた私が振っていた手の高さは子供の顔の高さとそれほど差がない。走り回る子供がぶつかる可能性がないとは言えない。もし顔や目などに当たったとき、彼はどう責任を取るのか?
飛び出し事故でも運転手の前方不注意が指摘されるように、歩き煙草をしている人の持つ加害可能性と発生時の責任は大きい。歩き煙草をしている人はまずないと考えているだろう。が、現に私の左には痕がある。この1つの事例の存在は別の事故の可能性を明らかにしている。
煙草を吸う行為。何故、煙草を吸い続けるのだろうか?多くの依存症と同様に、煙草を吸うという行為も代償行為としてのそれである。真の欲求の代わり。薬物中毒としてのニコチン中毒ならば別の取得方法でもよいはずだ。そうではない。吸うという行為そのものが代償行為なのだ。それは精神分析的には、口唇期の欲求不満から来ると考えられる。つまり、「ママのおっぱい」の代わりとしての煙草だ。
自立を重んじるアメリカで煙草が避けられる様になったのは、単に本人の健康を損ね、死期を早め、そして他人にも害をまき散らすからだけではない。「おしゃぶり」がなければ精神が安定しない弱さ、止めることが出来ない自己管理能力の無さが問題になっているのだ。(この考え自体も病的なのであるが)
そんな訳で私の頭の中では「煙草=おしゃぶり」という認識エンジンが存在しており、それが働き出すとポスターやCMで格好良い男が煙草を吸っている姿に「おしゃぶり」をくわえている滑稽な姿が二重写し重なって見えてくる。
特に街中を歩きながら煙草を吸わずに居られない人を見ると、すぐに認識エンジンが起動して、「おしゃぶり」をくわえずには居られない人に変換される。煙草を加えて歩いているスーツ姿の大の大人がまるでお遊戯している幼稚園児のように見えてくる・・・。
歩き煙草をする人に対し、「呪言」を言ってみた。
いぬもあるけば・・・「根性焼き」
2001年6月11日 20時前、私は渋谷の街をいそいそを歩いていた。私が受け手でなく、発し手となろうとしたきっかけを与えてくれたユニット「TAMTAM」の久々のライブがあるからだ。『アフリカン・ダンス・パーティー/ハワレ』というイベント。TAMTAMとアッサン・ジャバイ&スーパーサンチビというユニット(?)によるイベント。目的地は渋谷駅と原宿駅の間にあるクロコダイル。
タワーレコード渋谷店を過ぎた辺りで男に手がぶつかった。「すいません」男の謝り声。
左手に何かくっついた感触。見てみると赤い光が。煙草の火種が私の左手の甲、親指の付け根で鎮座していた。赤い光をバチバチと右手で叩き落とす。
火種が完全に落ち、黒い灰に汚れた手を確認してから、男を見やった。
「大丈夫ですか?」 小柄な男が恐縮している。
「・・・気をつけてください」 相手の目をしっかり見ながら、押さえた声で私は言った。そして、すたすたとその場を離れた。
急ぎ足で会場に向かう。目印になるはずの銀行を探しながら。目の前に人の群。なにげに道脇に座っている人を見遣ると・・・「あれ?」 TAKAさんだった(汗)。勢い余って通り過ぎるところだった。30分押しているために休憩していたらしい。お陰で私は迷子になったり、聴きそびれたりしなくて済んだ。
地下に降りて会場に入る。見渡すと前のライブ後のファン交流会で知り合った人達を発見。空いている席に座らせて貰った。生ジョッキを頼み、飲みつつ・・・火傷した場所を冷やしていた。天井から吊されたモニターに移るアフリカンダンスの映像を見ながら。しばらくすると、煙草の火が載った部分の表皮がベロリと剥けた。リンパ液がジクジクしみ出してくる。冷やしているために痛みはほとんどないのが幸い。気にせずにライブを楽しむことができた。
20時半過ぎ、ライブ開演。セネガルから来たパーカッショニスト達がバックを務め、ドラムが鳴り響くアレンジの伴奏に合わせてMARIさんが歌った。前回、見に行ったヤマハ渋谷店のライブハウスのときのような派手さはないが、しなやかさを感じる。メイクの違いのせいだろうか?会場の広さの違いだろうか?印象が違っていた。
歌いながらパーカッションをこなすMARIさん。飄々とした風情でギターを鳴らすTAKAさん。サックスと大勢のドラムのバック・・・。感傷的な歌がそれだけでないものに変わる。
TAMTAMのライブを見に行くことで、段々パーカッションに対する感性が磨かれてきた気がする。音楽に乗ってつい指でリズムを取ってしまう癖はそれとリンクしている。そんな訓練(?)をしてきたお陰で、次のオールパーカッション、セネガルの音楽も楽しむことができた。
ドラムの音を聴きながら思う。ドラムを叩くということ。叩くことで生まれる音。音は波動。波紋が広がるイメージ。ぶつかり、反射し、散乱し、そして共鳴する。叩くという行為が生みだすもの。生みだす行為によって立ち現れる行為体。捉えることが出来ないものを生みだし続ける。では直接生みださない、生みだせない者は?心の固有振動数をもつ共鳴箱。弦だけの音では音楽と成り得ない。
外に出ると、路面が濡れていた。雨が降っていたようだ。
タワーレコード渋谷店を過ぎた辺りで男に手がぶつかった。「すいません」男の謝り声。
左手に何かくっついた感触。見てみると赤い光が。煙草の火種が私の左手の甲、親指の付け根で鎮座していた。赤い光をバチバチと右手で叩き落とす。
火種が完全に落ち、黒い灰に汚れた手を確認してから、男を見やった。
「大丈夫ですか?」 小柄な男が恐縮している。
「・・・気をつけてください」 相手の目をしっかり見ながら、押さえた声で私は言った。そして、すたすたとその場を離れた。
急ぎ足で会場に向かう。目印になるはずの銀行を探しながら。目の前に人の群。なにげに道脇に座っている人を見遣ると・・・「あれ?」 TAKAさんだった(汗)。勢い余って通り過ぎるところだった。30分押しているために休憩していたらしい。お陰で私は迷子になったり、聴きそびれたりしなくて済んだ。
地下に降りて会場に入る。見渡すと前のライブ後のファン交流会で知り合った人達を発見。空いている席に座らせて貰った。生ジョッキを頼み、飲みつつ・・・火傷した場所を冷やしていた。天井から吊されたモニターに移るアフリカンダンスの映像を見ながら。しばらくすると、煙草の火が載った部分の表皮がベロリと剥けた。リンパ液がジクジクしみ出してくる。冷やしているために痛みはほとんどないのが幸い。気にせずにライブを楽しむことができた。
20時半過ぎ、ライブ開演。セネガルから来たパーカッショニスト達がバックを務め、ドラムが鳴り響くアレンジの伴奏に合わせてMARIさんが歌った。前回、見に行ったヤマハ渋谷店のライブハウスのときのような派手さはないが、しなやかさを感じる。メイクの違いのせいだろうか?会場の広さの違いだろうか?印象が違っていた。
歌いながらパーカッションをこなすMARIさん。飄々とした風情でギターを鳴らすTAKAさん。サックスと大勢のドラムのバック・・・。感傷的な歌がそれだけでないものに変わる。
TAMTAMのライブを見に行くことで、段々パーカッションに対する感性が磨かれてきた気がする。音楽に乗ってつい指でリズムを取ってしまう癖はそれとリンクしている。そんな訓練(?)をしてきたお陰で、次のオールパーカッション、セネガルの音楽も楽しむことができた。
ドラムの音を聴きながら思う。ドラムを叩くということ。叩くことで生まれる音。音は波動。波紋が広がるイメージ。ぶつかり、反射し、散乱し、そして共鳴する。叩くという行為が生みだすもの。生みだす行為によって立ち現れる行為体。捉えることが出来ないものを生みだし続ける。では直接生みださない、生みだせない者は?心の固有振動数をもつ共鳴箱。弦だけの音では音楽と成り得ない。
外に出ると、路面が濡れていた。雨が降っていたようだ。
いぬもあるけば・・・「いっこく堂」
2001年6月10日 夕食の準備をしながらNHKの番組「課外授業 ようこそ先輩」を見ていた。今回の先輩先生は腹話術師のいっこく堂さんだった。彼は母校の小学生達に腹話術を教えていた。いや、正確には腹話術という道具を使って別のことを教えていた。
子供達に腹話術という形で日頃大人に言えないことを言ってもらう。それがこの授業で行うこと。「日頃大人に言えないこと」を発表するというのはよくある体験授業だ。授業参観で作文を読むなどした記憶がある。興味深いのはそれを腹話術という形態で行うことだ。いっこく堂さんはそれがもたらす効果を自覚して子供達に指導していた。
授業はまず主題である「大人に言いたいこと」を子供達に文章化させた。通常はここから「如何に発表するか」という伝達方法の検討、表現の方法論に移る。しかし、ここでいっこく堂さんは「転回」を起こす。先程子供達が書き上げた作文を元に台本を作らせるという手法で。もちろんそれは腹話術という「芸」を行うための技術なのだが、ここにポイントがある。
「腹話術とは」というと「口を動かさないで声を出す術」とよく定義されるが、「芸」として成り立たせているのはそれではない。「一人二役(多役)の掛け合い」が腹話術という「芸」の本質だ。掛け合うということはそのステージ上で「対話」が成立するということ。一人だけの「対話空間」。これが成立するには、その空間に2つの人格が存在しなければならない。落語の場合も似たようなものだが、決定的に違うのは「落語空間」に存在するのは演者にとって「他者二人」/「客体2つ」であるということ。「腹話術空間」に存在するのは「主体/行為体と客体の2者」である。その意味で、幾ら腹話術という「術」を使おうとも「主体/行為体」が存在しないならば、それは人形劇に過ぎない。
「転回」はそれだけでない。先程のテーマ「言えないこと、語ることのできないことを語る」術として「主体/行為体と客体」の転回が示される。「演者と人形」。台本を書くに際し、演者が語りたいことを人形に語らせる。演者は意見の対立者(ツッコミ)として語った人形に対する人物となる。つまり客体側の人格を演じる。
このような話法を行う「演者と人形だけ」の疑似空間は現界とは異なる空間にある。そのために現界では語るに抵抗のある言説を容易に語り得るのだ。子供達はそこで子供にとっての権威者/支配者である大人の支配を逃れて「物語」を語る。
自分の「物語」を語るだけではない。先程述べたように「腹話術」はその空間で他者の「物語」も語ることを求める。他者の物語を語る行為はロールプレイという言葉が示すものに近い。ここに腹話術とPBMの類似を見て取れる。そしてロールプレイが成立する必要条件も。
観察者は二つの「物語」がぶつかり合ったその先に、それよりも上位の物語である「オチ」が立ち現れるのを見て笑う。しかし何に対して笑っているか知ることは出来ない。不確定性原理によって。
子供達は拙いなりに語った。どう語ったか、何を語ったかは問題ではない。このような語るための戦略があることを体感/体得するだけで十分だ。体得した知恵は力となる。
・・・こうして、いっこく堂さんの授業は終わった。外側から見れば、子供達に腹話術をさせるというちょっと変わった体験をさせるだけの。
ネットを検索してみたが、いっこく堂を比喩として語る人はたくさんいるのに、いっこく堂を語る人が少ないのは意外だ。
子供達に腹話術という形で日頃大人に言えないことを言ってもらう。それがこの授業で行うこと。「日頃大人に言えないこと」を発表するというのはよくある体験授業だ。授業参観で作文を読むなどした記憶がある。興味深いのはそれを腹話術という形態で行うことだ。いっこく堂さんはそれがもたらす効果を自覚して子供達に指導していた。
授業はまず主題である「大人に言いたいこと」を子供達に文章化させた。通常はここから「如何に発表するか」という伝達方法の検討、表現の方法論に移る。しかし、ここでいっこく堂さんは「転回」を起こす。先程子供達が書き上げた作文を元に台本を作らせるという手法で。もちろんそれは腹話術という「芸」を行うための技術なのだが、ここにポイントがある。
「腹話術とは」というと「口を動かさないで声を出す術」とよく定義されるが、「芸」として成り立たせているのはそれではない。「一人二役(多役)の掛け合い」が腹話術という「芸」の本質だ。掛け合うということはそのステージ上で「対話」が成立するということ。一人だけの「対話空間」。これが成立するには、その空間に2つの人格が存在しなければならない。落語の場合も似たようなものだが、決定的に違うのは「落語空間」に存在するのは演者にとって「他者二人」/「客体2つ」であるということ。「腹話術空間」に存在するのは「主体/行為体と客体の2者」である。その意味で、幾ら腹話術という「術」を使おうとも「主体/行為体」が存在しないならば、それは人形劇に過ぎない。
「転回」はそれだけでない。先程のテーマ「言えないこと、語ることのできないことを語る」術として「主体/行為体と客体」の転回が示される。「演者と人形」。台本を書くに際し、演者が語りたいことを人形に語らせる。演者は意見の対立者(ツッコミ)として語った人形に対する人物となる。つまり客体側の人格を演じる。
このような話法を行う「演者と人形だけ」の疑似空間は現界とは異なる空間にある。そのために現界では語るに抵抗のある言説を容易に語り得るのだ。子供達はそこで子供にとっての権威者/支配者である大人の支配を逃れて「物語」を語る。
自分の「物語」を語るだけではない。先程述べたように「腹話術」はその空間で他者の「物語」も語ることを求める。他者の物語を語る行為はロールプレイという言葉が示すものに近い。ここに腹話術とPBMの類似を見て取れる。そしてロールプレイが成立する必要条件も。
観察者は二つの「物語」がぶつかり合ったその先に、それよりも上位の物語である「オチ」が立ち現れるのを見て笑う。しかし何に対して笑っているか知ることは出来ない。不確定性原理によって。
子供達は拙いなりに語った。どう語ったか、何を語ったかは問題ではない。このような語るための戦略があることを体感/体得するだけで十分だ。体得した知恵は力となる。
・・・こうして、いっこく堂さんの授業は終わった。外側から見れば、子供達に腹話術をさせるというちょっと変わった体験をさせるだけの。
ネットを検索してみたが、いっこく堂を比喩として語る人はたくさんいるのに、いっこく堂を語る人が少ないのは意外だ。
いぬもあるけば・・・「国宝見学」
2001年6月9日 例の勉強会の見学会として竹内順一先生と一緒に根津美術館で開催されている開館60周年記念名品展「第二部 国宝 漁村夕照図・鶉図 ―東山御物と唐絵の世界―」を見る機会を得た。
いきなり遅刻しそうになる。表参道5番出口から美術館までのお洒落な店の並ぶ一本道を走る。ぎりぎり間に合った。
土曜だったが、思ったほど混んでいなかった。お茶関係の方らしい着物を着付けた人やレポートのためにやってきた学生さんが目に付く。どこかのゼミなのだろうか?先生と学生の一団もあった。我々8名はパンフを片手に他の迷惑にならないように見学。竹内先生も時間のない方なので、見所の数点を一緒に見た後、解散ということに。
展示室1に入ってすぐ、「瓜虫図」(重文:呂敬甫筆)を見る。竹内先生は文化史的な視点で解説してくれるので面白い。紙本彩色であるところがポイント。なぜこのような静物画が描かれたのか?美術をやっている人には常識なのだろうが、門外漢の私には新鮮な話だった。 「全てのものに仏あり」 この考えがこの絵が描かれた背景にある。後年、さらに写実が進んで、写実そのものが目的になっていったらしいが。何の変哲もない瓜と虫数匹の絵が、その「変哲もないこと」そのものに意味があったとは。面白い。
続いて「鶉図」(国宝:李安忠筆と伝えられる)を見る。絹本着色。これは当時もっと大きな絵の一部だったらしい。そのなかの良いところを切りとって扇にしたらしい。当時はよく行われたことらしい。逆にそのように小さくしたために現存したということもあるだろう。確かに良いとこ取りしたのだなと思わせる絵。
絵の前の人が減ったので「漁村夕照図」(国宝:牧谿筆と伝えられる)を見る。空気遠近法を巧みに使って霞んだ漁村の雰囲気を表している。思ったより大きい。これは瀟湘八景図巻の一部で大小それぞれ8つあるうちの大きい方の1つだという。余りに大きいので茶の席では用いられなかった、つまり茶における実用性はあまりなかったらしい。
続いて「夕陽山水画」(重文:馬燐筆)。絹本淡彩。これも”常識”なのかも知れないが、この絵は左右にあったものを上下に付け替えたものらしい。そのために、中央のトリニトロン管みたいに横筋が走っている。上に漢詩、下に絵という構成に変えたのだ。それが成功して味がある。このころの作った形そのままが大事という思想はないようだ。鶉図もそうなのだが、、自分たちの好みに自由にコラージュしている。その楽しみ方にちょっと感じるものがある。
先生から窺ったのだが、絵が取りつけられている表具そのものが日本独特なもの。掛け軸は今でこそ床の間など限られたところに鎮座しているけれど、昔は茶会などの催し物のときに襖に掛けたものだった。襖には襖絵が描かれている。そのまま絵を掛けたのでは巻物の絵がよく見えない。そのため、背景の絵を分ける目的として表具が作られた。この辺りに日本人の空間把握のセンスを見る。表具が合っていなければ、ごちゃごちゃしていては絵は生きてこない。合った表具によって絵の魅力が増す。それも茶会で用いられることを前提にしているため、下から見上げると丁度良くなるような構成となっている。
道具にはそれぞれ意味があってこの形になっている。普段見過ごしていることに気付かされる。
他に見所や茶道具などを1時間弱見て回った。ここで先生はお帰りになった。残る面子で更に1時間見まわった後、喫茶する。私以外の皆さん、お茶をやっている。裏と表の人が違いについて話し合っているのを聴いてみたり。
解散後、表参道を原宿駅まで歩いてみた。根津美術館周辺から原宿駅まで歩くと雰囲気の変化を楽しめる。勢いに乗って、原宿駅から渋谷駅まで歩いてしまった。さらに大きく変化する。根津美術館とハチ公像周辺の雰囲気の差は物凄いものがある。
渋谷から大井町に移り、品川プライベに顔を出す。おしゃべりに終始。閉会後、ファミレス的蕎麦屋で食事。ウェイターの粗相に笑わせてもらった。ふぅ。
いきなり遅刻しそうになる。表参道5番出口から美術館までのお洒落な店の並ぶ一本道を走る。ぎりぎり間に合った。
土曜だったが、思ったほど混んでいなかった。お茶関係の方らしい着物を着付けた人やレポートのためにやってきた学生さんが目に付く。どこかのゼミなのだろうか?先生と学生の一団もあった。我々8名はパンフを片手に他の迷惑にならないように見学。竹内先生も時間のない方なので、見所の数点を一緒に見た後、解散ということに。
展示室1に入ってすぐ、「瓜虫図」(重文:呂敬甫筆)を見る。竹内先生は文化史的な視点で解説してくれるので面白い。紙本彩色であるところがポイント。なぜこのような静物画が描かれたのか?美術をやっている人には常識なのだろうが、門外漢の私には新鮮な話だった。 「全てのものに仏あり」 この考えがこの絵が描かれた背景にある。後年、さらに写実が進んで、写実そのものが目的になっていったらしいが。何の変哲もない瓜と虫数匹の絵が、その「変哲もないこと」そのものに意味があったとは。面白い。
続いて「鶉図」(国宝:李安忠筆と伝えられる)を見る。絹本着色。これは当時もっと大きな絵の一部だったらしい。そのなかの良いところを切りとって扇にしたらしい。当時はよく行われたことらしい。逆にそのように小さくしたために現存したということもあるだろう。確かに良いとこ取りしたのだなと思わせる絵。
絵の前の人が減ったので「漁村夕照図」(国宝:牧谿筆と伝えられる)を見る。空気遠近法を巧みに使って霞んだ漁村の雰囲気を表している。思ったより大きい。これは瀟湘八景図巻の一部で大小それぞれ8つあるうちの大きい方の1つだという。余りに大きいので茶の席では用いられなかった、つまり茶における実用性はあまりなかったらしい。
続いて「夕陽山水画」(重文:馬燐筆)。絹本淡彩。これも”常識”なのかも知れないが、この絵は左右にあったものを上下に付け替えたものらしい。そのために、中央のトリニトロン管みたいに横筋が走っている。上に漢詩、下に絵という構成に変えたのだ。それが成功して味がある。このころの作った形そのままが大事という思想はないようだ。鶉図もそうなのだが、、自分たちの好みに自由にコラージュしている。その楽しみ方にちょっと感じるものがある。
先生から窺ったのだが、絵が取りつけられている表具そのものが日本独特なもの。掛け軸は今でこそ床の間など限られたところに鎮座しているけれど、昔は茶会などの催し物のときに襖に掛けたものだった。襖には襖絵が描かれている。そのまま絵を掛けたのでは巻物の絵がよく見えない。そのため、背景の絵を分ける目的として表具が作られた。この辺りに日本人の空間把握のセンスを見る。表具が合っていなければ、ごちゃごちゃしていては絵は生きてこない。合った表具によって絵の魅力が増す。それも茶会で用いられることを前提にしているため、下から見上げると丁度良くなるような構成となっている。
道具にはそれぞれ意味があってこの形になっている。普段見過ごしていることに気付かされる。
他に見所や茶道具などを1時間弱見て回った。ここで先生はお帰りになった。残る面子で更に1時間見まわった後、喫茶する。私以外の皆さん、お茶をやっている。裏と表の人が違いについて話し合っているのを聴いてみたり。
解散後、表参道を原宿駅まで歩いてみた。根津美術館周辺から原宿駅まで歩くと雰囲気の変化を楽しめる。勢いに乗って、原宿駅から渋谷駅まで歩いてしまった。さらに大きく変化する。根津美術館とハチ公像周辺の雰囲気の差は物凄いものがある。
渋谷から大井町に移り、品川プライベに顔を出す。おしゃべりに終始。閉会後、ファミレス的蕎麦屋で食事。ウェイターの粗相に笑わせてもらった。ふぅ。
いぬもあるけば・・・「哀しい聴き方」
2001年6月8日 哀しいとき、憤りを覚えたとき、そしてそれらを静めたいとき。音楽を聴く。感情をコントロールするために。どこまで、いつまで有効かわからないまでも・・・
帰宅途中の夜道。目の前を歩いている二人連れ。仲良く手を繋いでいる。暗がりなのでどんなカップルだか判らなかった。自動販売機の光が二人を照らしてようやくわかる。50代の男女。ざっくばらんな会話の雰囲気から、おそらくはご夫婦だろう。なんか、微笑ましかった。こういうの、いいよね〜。
どうやら、この間のCD購入は運が良かったようだ。店頭で適当に買った3枚。それぞれ、持ち味がある。流行りものだからと逆に避けていた「Do Az Infinity」をきちんと評価できることが良かった。ドラマなどでしばらく前から色々タイアップされているらしいが、ここ数年間まともに9時台、10時台のドラマを見ていないので良く知らない。購入した「NEW WORLD」というアルバムで一番惹かれたのが、ボーナストラックとして入っていた「Yesterday&Today(Strings Orchestra Mix)」というのはヤバイよな。しかも、この曲もこのCDで聴くまで意識していなかった辺り・・・。何かのドラマの主題歌だったらしいのだが。このアレンジが気に入る余り、元のアレンジのを聞きたくない。が、元のアレンジのが売れなかったら、今回のアレンジは為されなかっただろう。ふむ。ストリングスが気持ちいいんだよなぁ。
哀しいとき、憤りを覚えたとき、そしてそれらを静めたいとき。音楽を聴く。感情をコントロールするために。どこまで、いつまで有効かわからないまでも・・・
帰宅途中の夜道。目の前を歩いている二人連れ。仲良く手を繋いでいる。暗がりなのでどんなカップルだか判らなかった。自動販売機の光が二人を照らしてようやくわかる。50代の男女。ざっくばらんな会話の雰囲気から、おそらくはご夫婦だろう。なんか、微笑ましかった。こういうの、いいよね〜。
どうやら、この間のCD購入は運が良かったようだ。店頭で適当に買った3枚。それぞれ、持ち味がある。流行りものだからと逆に避けていた「Do Az Infinity」をきちんと評価できることが良かった。ドラマなどでしばらく前から色々タイアップされているらしいが、ここ数年間まともに9時台、10時台のドラマを見ていないので良く知らない。購入した「NEW WORLD」というアルバムで一番惹かれたのが、ボーナストラックとして入っていた「Yesterday&Today(Strings Orchestra Mix)」というのはヤバイよな。しかも、この曲もこのCDで聴くまで意識していなかった辺り・・・。何かのドラマの主題歌だったらしいのだが。このアレンジが気に入る余り、元のアレンジのを聞きたくない。が、元のアレンジのが売れなかったら、今回のアレンジは為されなかっただろう。ふむ。ストリングスが気持ちいいんだよなぁ。
哀しいとき、憤りを覚えたとき、そしてそれらを静めたいとき。音楽を聴く。感情をコントロールするために。どこまで、いつまで有効かわからないまでも・・・
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いぬもあるけば・・・「ひまわり」
2001年6月7日 今、私の部屋には一本のひまわりの花が飾られている。
烈しい雨に足元を濡らしながら、南青山マンダラで行われた、カズンのライブを見に行った。「活動再開宣言ライブ」と内々で銘打ったライブ。
去年からライブを行っているからすでに活動再開しているではないかというツッコミが入るかもしれない。まあ、これはCDをまたメジャーレーベルから出すことが出来るという意味らしい。すでにNHK教育テレビで毎週土曜20:45〜20:55に放映されている「ボランティアにっぽん」のテーマ音楽として彼らの歌が使われている。それが今度、7/25にシングルCDとして発売されるとのこと。そんな事情もあって、会場には関係者席がかなりあった。取材に来ていたスポーツ新聞の記者の分もあったのかもしれない。取材されたとい言っていた。
カズンの二人は白を基調とした衣装で登場。古賀さんは襟元が広がっている白のワンピース。漆戸さんは白地のシャツと・・・白い髪!CDのジャケット撮影の為に染めたらしい。脱色とも感じが違う、変だなと思ったら。染めるのに失敗して云々という話。撮影のために染めに失敗した青みがかった髪をポスターカラーで染めたという。
これから新たに活動するということもあって、昔の歌だけでなく、新曲を数多く披露してくれた。カズンの歌は小林和子さんによる作詩が多いのだか、話によるとトップダウンに提供されるだけでなく、彼らと小林さんと話し合うなど要望をボトムアップすることもあるようだ。そんな風に出来た歌が「花冷え」。3年前、古賀さんのお母さんが亡くなったとき、彼女はそうとう参ってしまったらしい。その別れの体験を小林さんに話したことがきっかけ。歌は言う。日々の生活の中、慌ただしく過ごしてしまうが、ふと昔のことを思い出すことがある。感情の迸る瞬間。忘れてはならない思い。例えそれが辛く悲しい思い出だとしても。
続いて、漆戸さんのコーナー。今度発売のCDのカップリングとなっている「歌を忘れた頃」。カズンが活動停止状態になっていたときの彼の迷いがモチーフ。綺麗で優しい歌。
プレゼントコーナーが終わった後に、CDとなる「ひまわり」が歌われた。この歌はNHKボランティアネット[リンク]で一部試聴出来る。作詞者の小林和子さんが語る「ひまわりのコンセプト」を読みながら。
アンコールでまた「ひまわり」を歌った。最後のコーラスはその場のお客と一緒に。
帰りがけ、テイチクの社長さんから送られた花束からひまわりを1つ抜き取った。古賀さんが「CDを買うぞ!っていう方はどうぞ」と言われたので遠慮なく。
銀座線、東海道本線、南部線。車両の揺れに合わせて、ひまわりは揺れる。梅雨に入ったばかりの、灰色がかった車内で咲いているひまわりの黄色は、それ自体、なにか光を発しているよう。くすんだ日常に色彩を取り戻す魔法の光。
烈しい雨に足元を濡らしながら、南青山マンダラで行われた、カズンのライブを見に行った。「活動再開宣言ライブ」と内々で銘打ったライブ。
去年からライブを行っているからすでに活動再開しているではないかというツッコミが入るかもしれない。まあ、これはCDをまたメジャーレーベルから出すことが出来るという意味らしい。すでにNHK教育テレビで毎週土曜20:45〜20:55に放映されている「ボランティアにっぽん」のテーマ音楽として彼らの歌が使われている。それが今度、7/25にシングルCDとして発売されるとのこと。そんな事情もあって、会場には関係者席がかなりあった。取材に来ていたスポーツ新聞の記者の分もあったのかもしれない。取材されたとい言っていた。
カズンの二人は白を基調とした衣装で登場。古賀さんは襟元が広がっている白のワンピース。漆戸さんは白地のシャツと・・・白い髪!CDのジャケット撮影の為に染めたらしい。脱色とも感じが違う、変だなと思ったら。染めるのに失敗して云々という話。撮影のために染めに失敗した青みがかった髪をポスターカラーで染めたという。
これから新たに活動するということもあって、昔の歌だけでなく、新曲を数多く披露してくれた。カズンの歌は小林和子さんによる作詩が多いのだか、話によるとトップダウンに提供されるだけでなく、彼らと小林さんと話し合うなど要望をボトムアップすることもあるようだ。そんな風に出来た歌が「花冷え」。3年前、古賀さんのお母さんが亡くなったとき、彼女はそうとう参ってしまったらしい。その別れの体験を小林さんに話したことがきっかけ。歌は言う。日々の生活の中、慌ただしく過ごしてしまうが、ふと昔のことを思い出すことがある。感情の迸る瞬間。忘れてはならない思い。例えそれが辛く悲しい思い出だとしても。
続いて、漆戸さんのコーナー。今度発売のCDのカップリングとなっている「歌を忘れた頃」。カズンが活動停止状態になっていたときの彼の迷いがモチーフ。綺麗で優しい歌。
プレゼントコーナーが終わった後に、CDとなる「ひまわり」が歌われた。この歌はNHKボランティアネット[リンク]で一部試聴出来る。作詞者の小林和子さんが語る「ひまわりのコンセプト」を読みながら。
アンコールでまた「ひまわり」を歌った。最後のコーラスはその場のお客と一緒に。
帰りがけ、テイチクの社長さんから送られた花束からひまわりを1つ抜き取った。古賀さんが「CDを買うぞ!っていう方はどうぞ」と言われたので遠慮なく。
銀座線、東海道本線、南部線。車両の揺れに合わせて、ひまわりは揺れる。梅雨に入ったばかりの、灰色がかった車内で咲いているひまわりの黄色は、それ自体、なにか光を発しているよう。くすんだ日常に色彩を取り戻す魔法の光。
いぬもあるけば・・・「横熱病」
2001年6月6日 友人達が先日予防接種を受けたと言う。接種後10日過ぎから10年間有効らしい。
何でそんなものを受けたかというと、これも皆既日食のため。今回、皆既日食が見える皆既帯がアフリカ大陸を通る。そう、目的地はザンビア。南アフリカ経由。
さすが横熱病、予防接種なのだが、受けた友人達、それぞれ体調不良を訴えている。打たれたところ周辺が腫れたとか、体のあちこちが痛いとか・・・本当に大丈夫なのか?(大汗)
彼らは天文ガイドという雑誌が協賛しているツアーに参加する。天文ガイドという雑誌は天文ファンの間では「ぴあ」みたいな雑誌だ。南アフリカ〜ジンバブエ〜ザンビアと3カ国移動。昨年に発表された計画では最小催行人数は75名だった。が、今年の初め、締めきり直前に申し込んだ友人の番号は24(汗)。 友人達3名の内、一人が先日ツアー説明会に行ってきた。そこで判明した参加人数は・・・12名。これに添乗員と天文ガイド関係者が加わって14名・・・。大丈夫なのか?(爆)
で、肝心のザンビアについてだが・・詳細な情報は余りないらしい。どういう気候なのかも。アフリカなので当然、A型肝炎、コレラや赤痢、冬なので余りいないらしいがマラリア蚊もあるとのこと。さすがにエボラ出血熱はないらしいが・・・。治安もよくない。尤も、人よりも動物に気をつけた方がよいらしいとか・・・。
・・・話を聞いているに、どうも日食ツアーというよりも「冒険ツアー」のようにしか聞こえてこない(汗)。まぁ、皆既日食を見るために、インド、モンゴルそしてベネズエラまで行ってしまった奴らだから生きて帰ってくるとは思うが。心配なのはどこでもハプニングとドラマを発生させてしまう性質(たち)。スムーズな旅になるとは・・・思えない(汗)。前回の(私も参加した)トルコまで見に行ったツアーでも色々あったし。またとんでもないことに遭遇するのだろう。
それにしても、参加者12名。そのうちの3人グループとなったら・・・天文ガイドの日食報告グラビアなどに「彼ら」扱いで出そうな気がするな。
お土産話を今から楽しみにしている私である。無事に、それは難しいか、健康な体で帰ってきて欲しい。「3分40秒」の皆既日食を楽しんで。曇りませんように。彼らの出発は6/16。
何でそんなものを受けたかというと、これも皆既日食のため。今回、皆既日食が見える皆既帯がアフリカ大陸を通る。そう、目的地はザンビア。南アフリカ経由。
さすが横熱病、予防接種なのだが、受けた友人達、それぞれ体調不良を訴えている。打たれたところ周辺が腫れたとか、体のあちこちが痛いとか・・・本当に大丈夫なのか?(大汗)
彼らは天文ガイドという雑誌が協賛しているツアーに参加する。天文ガイドという雑誌は天文ファンの間では「ぴあ」みたいな雑誌だ。南アフリカ〜ジンバブエ〜ザンビアと3カ国移動。昨年に発表された計画では最小催行人数は75名だった。が、今年の初め、締めきり直前に申し込んだ友人の番号は24(汗)。 友人達3名の内、一人が先日ツアー説明会に行ってきた。そこで判明した参加人数は・・・12名。これに添乗員と天文ガイド関係者が加わって14名・・・。大丈夫なのか?(爆)
で、肝心のザンビアについてだが・・詳細な情報は余りないらしい。どういう気候なのかも。アフリカなので当然、A型肝炎、コレラや赤痢、冬なので余りいないらしいがマラリア蚊もあるとのこと。さすがにエボラ出血熱はないらしいが・・・。治安もよくない。尤も、人よりも動物に気をつけた方がよいらしいとか・・・。
・・・話を聞いているに、どうも日食ツアーというよりも「冒険ツアー」のようにしか聞こえてこない(汗)。まぁ、皆既日食を見るために、インド、モンゴルそしてベネズエラまで行ってしまった奴らだから生きて帰ってくるとは思うが。心配なのはどこでもハプニングとドラマを発生させてしまう性質(たち)。スムーズな旅になるとは・・・思えない(汗)。前回の(私も参加した)トルコまで見に行ったツアーでも色々あったし。またとんでもないことに遭遇するのだろう。
それにしても、参加者12名。そのうちの3人グループとなったら・・・天文ガイドの日食報告グラビアなどに「彼ら」扱いで出そうな気がするな。
お土産話を今から楽しみにしている私である。無事に、それは難しいか、健康な体で帰ってきて欲しい。「3分40秒」の皆既日食を楽しんで。曇りませんように。彼らの出発は6/16。
いぬもあるけば・・・「鶴の友」
2001年6月5日 新潟で買ってきた「鶴の友」の純米酒を呑む。一升瓶しか店になかったので、それをちょいちょいっと呑んでいる。この酒は私にとって思い入れの深い銘柄だ。心の地酒とも言うべき銘柄。全国的に知られている訳ではなく、誰もを感嘆させるという訳でもない。
ただ、呑み飽きない。料理に負けず、高める力強さがある。さらりとした飲み口と後味のかすかな苦味。大吟醸のような媚びたところもなく、純米吟醸のような華やかさもない、どっしりとしたコクのある味が身上。ラベルのデザインも気に入っている。問題は、醸造所の方針もあって、県外では中々手に入らないこと。だから、個人的な新潟土産となっている。
そんな酒を呑みながら、自由連想。鶴の友・・友・・鶴の友達?なんだ?(~-~;;酔ってる〜(汗
友。親友。心友。広辞苑で調べてみると、よく言われる「親友」は「心友」の意味合いで使われている気がする。大事な人。分かり合える人。ジャイアン、曰く「心の友」。
この「親友」もある意味、幻想的存在なのかもしれない。客観的な存在でなく、主観的存在という意味で。親友という言葉の裏には「その人を信じる」という行為が前提にある。「信じていない親友」という言葉は意味を為さない。いくら重大な体験を共有しようとも、互いの秘密を知り合っていても‥‥。恋人、愛人とは別のカテゴリーだと思う。恋人や愛人の関係になれても、親友の関係になれるとは限らない。互いの思いの強度ではなく、信頼が作りだす。とはいえ、人は他者の信頼の程度を知ることはできない。親友間の「相互信頼」は言説のみで有効なパラメータ。そういう意味で幻想的存在。それ故、古来より求められ、価値を見出してきたのだろう。
『男の友情はお金では買えないものだ 男が男の血と汗と心で戦いとるものだ そういう友情こそ 命にもまさる尊いものであると わたしは信ずる わたしはそのためになら 死んでもよい』
ただ、呑み飽きない。料理に負けず、高める力強さがある。さらりとした飲み口と後味のかすかな苦味。大吟醸のような媚びたところもなく、純米吟醸のような華やかさもない、どっしりとしたコクのある味が身上。ラベルのデザインも気に入っている。問題は、醸造所の方針もあって、県外では中々手に入らないこと。だから、個人的な新潟土産となっている。
そんな酒を呑みながら、自由連想。鶴の友・・友・・鶴の友達?なんだ?(~-~;;酔ってる〜(汗
友。親友。心友。広辞苑で調べてみると、よく言われる「親友」は「心友」の意味合いで使われている気がする。大事な人。分かり合える人。ジャイアン、曰く「心の友」。
この「親友」もある意味、幻想的存在なのかもしれない。客観的な存在でなく、主観的存在という意味で。親友という言葉の裏には「その人を信じる」という行為が前提にある。「信じていない親友」という言葉は意味を為さない。いくら重大な体験を共有しようとも、互いの秘密を知り合っていても‥‥。恋人、愛人とは別のカテゴリーだと思う。恋人や愛人の関係になれても、親友の関係になれるとは限らない。互いの思いの強度ではなく、信頼が作りだす。とはいえ、人は他者の信頼の程度を知ることはできない。親友間の「相互信頼」は言説のみで有効なパラメータ。そういう意味で幻想的存在。それ故、古来より求められ、価値を見出してきたのだろう。
『男の友情はお金では買えないものだ 男が男の血と汗と心で戦いとるものだ そういう友情こそ 命にもまさる尊いものであると わたしは信ずる わたしはそのためになら 死んでもよい』
いぬもあるけば・・・「べらんめえ」
2001年6月4日 蒲田にわりと旨いラーメン屋がある。たまに猛烈に食べたくなる。
「べらんめえ」という店。JR蒲田駅東口を出て右。環8を目指して少し歩くと左手にある。ぶつ切りチャーシューメンが有名なのだが、今日はただのラーメンにした。それでも固めの細麺ととろけるチャーシューが愉しめた。
「べらんめえ」という言葉は江戸の職人言葉だと言われる。「男言葉」の1つだろう。で、これから無理やり「EASTERN YOUTH」に持ってこよう。
彼らは男言葉の口語で歌う。そのせいもあって、非常に「男臭い」歌に仕上がっている。男が男口調が歌う。その辺、ある意味で古臭いと感じる。吉田知加さんのように女口調で歌うのにそれを感じない。何故だろう。そして、いつからそう感じるようになったのだろう。
今の時代、「女になる」のも大変だが、「男になる」のも大変だ。女らしいという言葉が持つ幻想は今だ呪力をもつが、男らしいという言葉は80年代にかなり解体されてしまった。
幻想に翻弄されるのは悲劇だが、無効な幻想だと言われながらそれを求められるという状態は喜劇だ。そして、それは大きな悲劇を生み出す。いや、生み出している。指標がない中で悶える「男候補生」。きっかけも、機会も無化されて。タダ、トホウニクレテイル。
何も無い。それこそが一番の呪いかもしれないな。あるはずの、手に入れるべきものの存在の亡霊を追いかけつづけなければならない。
何故、あのような凶悪な事件が起こるのか?起こさなければならないのか?弱いものに見せる残酷さ。
ああいう事件を考えるのに、この「亡霊」からのアプローチも1つの方法かもしれない。
今のところ、「EASTERN YOUTH」しかパンクロックを知らないのでジャンル評はできないが、彼らの歌にある日本的男臭さ、かつて「ダサい。お洒落じゃない。」と切り捨てられたものがバンドの魅力の1つになっていると思う。こんなことを言うと彼らに罵倒されそうな気もするが。
『くやしさが男をつくる みじめさが男をつくる 悲しさが男をつくる 復讐心が偉大な男をつくりあげる 強大な敵がおまえを真に偉大な男につくりあげる』
「べらんめえ」という店。JR蒲田駅東口を出て右。環8を目指して少し歩くと左手にある。ぶつ切りチャーシューメンが有名なのだが、今日はただのラーメンにした。それでも固めの細麺ととろけるチャーシューが愉しめた。
「べらんめえ」という言葉は江戸の職人言葉だと言われる。「男言葉」の1つだろう。で、これから無理やり「EASTERN YOUTH」に持ってこよう。
彼らは男言葉の口語で歌う。そのせいもあって、非常に「男臭い」歌に仕上がっている。男が男口調が歌う。その辺、ある意味で古臭いと感じる。吉田知加さんのように女口調で歌うのにそれを感じない。何故だろう。そして、いつからそう感じるようになったのだろう。
今の時代、「女になる」のも大変だが、「男になる」のも大変だ。女らしいという言葉が持つ幻想は今だ呪力をもつが、男らしいという言葉は80年代にかなり解体されてしまった。
幻想に翻弄されるのは悲劇だが、無効な幻想だと言われながらそれを求められるという状態は喜劇だ。そして、それは大きな悲劇を生み出す。いや、生み出している。指標がない中で悶える「男候補生」。きっかけも、機会も無化されて。タダ、トホウニクレテイル。
何も無い。それこそが一番の呪いかもしれないな。あるはずの、手に入れるべきものの存在の亡霊を追いかけつづけなければならない。
何故、あのような凶悪な事件が起こるのか?起こさなければならないのか?弱いものに見せる残酷さ。
ああいう事件を考えるのに、この「亡霊」からのアプローチも1つの方法かもしれない。
今のところ、「EASTERN YOUTH」しかパンクロックを知らないのでジャンル評はできないが、彼らの歌にある日本的男臭さ、かつて「ダサい。お洒落じゃない。」と切り捨てられたものがバンドの魅力の1つになっていると思う。こんなことを言うと彼らに罵倒されそうな気もするが。
『くやしさが男をつくる みじめさが男をつくる 悲しさが男をつくる 復讐心が偉大な男をつくりあげる 強大な敵がおまえを真に偉大な男につくりあげる』
いぬもあるけば・・・「挑発と発見」
2001年6月3日 HMV渋谷店。新居昭乃さんのインストアライブ。イベント券300枚は捌けてしまい、チケット無しの人100名ほど会場後方から眺めるという格好。そこに2週間前に吉祥寺で見かけた通りすがりの人が今日もいた。大阪から通りすがるのは大変だよなぁ。
新居さん、こう言ってはいけないのかもしれないが・・・「可愛かった」。キャラクター的に、リアクションとか。この人も妖精の血が流れているのかしらん。
ライブ終了後、時間をつぶせる、落ち着ける場所を求めて流離う。東急本店4Fのローラ・アシュレイでアフタヌーンティーセットを頂く。PDAにテキストを打ち込みながらアールグレイなど。落ち着けたが、コストパフォーマンスは良くないナァ、などと考える私。
タワーレコードに動いて、吉田知加さんのインストアライブを観賞。「昭和歌謡グルーブ‥京都系‥」などの言葉で飾られている人。ステージ中央に位置して視た。なかなか良かった。歌詞が若い。本人が若いのだから当たり前か。『身体性』というか『触覚』を感じる。頭でしか考えられない、頭を通さないと感じられない奴をあざ笑い、挑発する。あざ笑われ、挑発された『私』。
ライブ後、2Fに上がって、CD漁り。吉田知加のアルバム、Do As Infinityのアルバム、そしてHMVで流していたPVで気に懸かったEASTERN YOUTHのマキシシングルを購入。これで8K円。昨日の絵と同じ値段だ。CDの方が購入時、余り迷わなかったり全部試聴出来なかったりで当たり外れが多い。今回はどうだろう。
新居さんのライブで会った人達と軽く飲んだ。ブックファーストのビルの7F。その***な内装からは想像できないほどまともなつまみが出たのに少し驚いた。翌日が月曜日なので、カラオケになだれ込むなどという危険な選択はせずに解散。先に帰られたネムネムな方は無事に家に付いたのだろうか?
帰宅してCDを聴いた。「EASTERN YOUTH」の唄に衝撃を受けた。いや、なぜ今まで聴かなかったのだろうか?目にはいらなかった?食わず嫌い?「パンク」という言葉だけで避けていたのならば、私はなんて愚かだったのだろう。とはいえ、出会いは時を選ぶ。今だからこそ気付いたのかも知れず。縁の糸はそういうものだろう。この曲を五月蝿く感じなくなっている自分。それは今までライブハウスで爆音を聞いてきて慣れたというのもあるはずだ。人に簡単に勧める事は出来ない。はっきり判断が分かれるバンドだと思う。
このマキシシングル「踵鳴る」を聴きながら、「ぱぶりか」と「tv.orange」が強烈に思い出されたのは何故だろう。狭い意味でジャンルが違うが、感じ方や方向性はかなり似ているところがある気がする。惹かれ方が似ているのだ。
しばし離るる君に。
『不安を感じるときに 立ち止まったり後戻りするのは 恥ではない
意地を張って とりかえしのつかないことになれば 生涯後悔するべし』
進むのも勇気、退くのも勇気。
新居さん、こう言ってはいけないのかもしれないが・・・「可愛かった」。キャラクター的に、リアクションとか。この人も妖精の血が流れているのかしらん。
ライブ終了後、時間をつぶせる、落ち着ける場所を求めて流離う。東急本店4Fのローラ・アシュレイでアフタヌーンティーセットを頂く。PDAにテキストを打ち込みながらアールグレイなど。落ち着けたが、コストパフォーマンスは良くないナァ、などと考える私。
タワーレコードに動いて、吉田知加さんのインストアライブを観賞。「昭和歌謡グルーブ‥京都系‥」などの言葉で飾られている人。ステージ中央に位置して視た。なかなか良かった。歌詞が若い。本人が若いのだから当たり前か。『身体性』というか『触覚』を感じる。頭でしか考えられない、頭を通さないと感じられない奴をあざ笑い、挑発する。あざ笑われ、挑発された『私』。
ライブ後、2Fに上がって、CD漁り。吉田知加のアルバム、Do As Infinityのアルバム、そしてHMVで流していたPVで気に懸かったEASTERN YOUTHのマキシシングルを購入。これで8K円。昨日の絵と同じ値段だ。CDの方が購入時、余り迷わなかったり全部試聴出来なかったりで当たり外れが多い。今回はどうだろう。
新居さんのライブで会った人達と軽く飲んだ。ブックファーストのビルの7F。その***な内装からは想像できないほどまともなつまみが出たのに少し驚いた。翌日が月曜日なので、カラオケになだれ込むなどという危険な選択はせずに解散。先に帰られたネムネムな方は無事に家に付いたのだろうか?
帰宅してCDを聴いた。「EASTERN YOUTH」の唄に衝撃を受けた。いや、なぜ今まで聴かなかったのだろうか?目にはいらなかった?食わず嫌い?「パンク」という言葉だけで避けていたのならば、私はなんて愚かだったのだろう。とはいえ、出会いは時を選ぶ。今だからこそ気付いたのかも知れず。縁の糸はそういうものだろう。この曲を五月蝿く感じなくなっている自分。それは今までライブハウスで爆音を聞いてきて慣れたというのもあるはずだ。人に簡単に勧める事は出来ない。はっきり判断が分かれるバンドだと思う。
このマキシシングル「踵鳴る」を聴きながら、「ぱぶりか」と「tv.orange」が強烈に思い出されたのは何故だろう。狭い意味でジャンルが違うが、感じ方や方向性はかなり似ているところがある気がする。惹かれ方が似ているのだ。
しばし離るる君に。
『不安を感じるときに 立ち止まったり後戻りするのは 恥ではない
意地を張って とりかえしのつかないことになれば 生涯後悔するべし』
進むのも勇気、退くのも勇気。