久々にJRのダイヤ改正の影響を受ける事になった。
那須塩原駅を9時前後に停車する東北新幹線が以前よ東京発が4分早くなった。
たかが4分だが、朝ということを考えると昼の10分ぐらいのイメージだ。
まあ、それはともかく入線などは同じだろうと思っていたのだが、ホームは勿論、入線時間も早くなっていた。
自由席が妙に混んでいる。通勤者が多いのかもしれないが、大宮から座れない人で通路がふさがれるとは。
座席数が減っているのか、それとも月曜の朝だからなのか・・・小山どころか宇都宮になるまで立っている人がいた。
 那須塩原駅に近づくと、那須ヶ岳が見えてくる。
既に雪が積もるほど降ったらしく、白い山々があった。
清々しさを感じるけれど、寒いのだろうな。
 
 
 今夜はどこに食べに行こうか・・・と先輩と検討していたのだが、結局コンビニで食べ物を買い込んでホテルに。
 最後のジョーンズ依頼のプレイングを終えたら、昨夜の睡眠不足と疲れから、温泉に入らずにグゥ。
 4つのプレイングをあらかた書き終えて外出。
以前、プラグデイジーもライブを行ったお茶の水KAKADO。
一時活動停止していたソーイングマシーンのLeeさんが活動を再開していた。
DMを頂いたり、サイトをチェックしていたのだが、中々ライブを観にいけなかった。
今回、ようやく都合がついた。
 18時半から始まるイベントの一番手。
18時過ぎに御茶ノ水駅に着き、会場に。先に会場に入った女性3名もソーイングマシーン目当てのようだ。
中には10名ほどお客が居たが、Leeさんが挨拶周りしている様子からほとんどがソーイングマシーン目当ての様子。このイベントの対バンは他に4組いるが、それらのお客さんは後から駆けつけるのだろう。
 会話の様子から、ある人たちは元サークル仲間とかそういう繋がりらしく、別の人たちはソーイングマシーンの歌に出会ってしまった人たちという感じだった。
 時間になった。ステージが始まる・・・

1.Rhytum&Soul
2.カリントウの鼓動
3.もだん・ふぁんたじぃ
4.水
5.メインストリートの青
6・無感覚の夜
7.手彩色の万華鏡の夜
8.陶器のメトロノーム
9.美しい惑いの年
10.Soul Star

 ソロ活動ということで、Leeさんは自己紹介で「ソーイングマシーン アローン」と称していた。
わざわざアローンなどと言わなくてもいいのに・・・と思ったのだが、どうやら本人、「アローン」という言葉の響きが気に入っている様子(苦笑)。
 セットリストのうちカリントウの鼓動と水以外はバンドを解散してから出来た曲。
MCで言っていたが、かなり私小説的な歌詞のものが多い。
ステージを見て驚いたのは、ソロでやっている今の方がボーカルが力強く感じる点だった。
あの「個性」の集まりだったバンドのソーイングマシーンは1つの奇跡のようなバンドだったが、その後それぞれ独自ベクトルの音楽活動を続けている点からして、個々人の灰汁は薄められていたのかもしれない。
 活動再開のきっかけが「創り溜まった歌を誰かに聴いてもらいたい」という事からして、自分の歌を聴いてもらうための純粋な真剣さと必要性が歌に力を持たせている気がする。
 つまり、他者に聴かせなければ完成しないということだろう。
ということは、作品を作るという作業の完成は他者の視線を受けることということか。
絵を描いたり、歌を作ったり、世界を創ったり・・・
 
 とまれ、良いライブだった。
実は観るまでそれほど期待していなかった。
バンドのときの軽妙さや個性溢れる音の競演など、バンドのときの魅力がないままのステージで何を観せられるのか判らなかった。
だからこそ、演奏前に昭かにバンドが解散してからのファンの姿に驚いたのだし。
イベントの1番手というのは前座的な要素が強いこともあって、来るまで10曲も歌うとは思っていなかったのもある。
期待は良い意味で裏切られた。
最後に歌った「Soul Star」はアローン故に生まれた名曲だと思う。
この曲を聴いて、また次のライブも観にいきたいと強く思った。
次回は1/10(火) 吉祥寺MANDARA2。対バンも面白そうだが、このときはアローンではなく、バンドの時にウッドベースで参加していた宇野さんが参加するらしい。楽しみだ。
 
 ライブは続く。3番目の「chu−ta」という人のステージが中々よかった。
 
 22時を過ぎた。明日からの出張準備を考えると帰らなければならない。そのため、一番最後の人のステージを観る事を諦めて撤収。
 横浜に出て、相鉄線に乗って海老名に。
駅前の商業施設ビナウォークのイベント「ミュージックディライト」に奥華子さんが出演するため。
会場に向かう途中で地物野菜を売る屋台が出ていた。
白菜などを後で買おうと思ったのだが1stステージ後には畳まれていた。
 
 屋外の会場ではいつもの司会のお姉さんが奥さんの紹介をしていた。
前回はメジャーデビューしてすぐだったか。
 14時からの1stステージは冷たい風がたまに吹く状況で行われた。
空を見上げれば、有明の月が見える。

1.愛されていたい
2.笑って笑って
3.白いあしあと
4.魔法の人
(テプコCMソング)
5.やさしい花

2ndステージは16時から。それまでビナウォ−クを散策。
何回か来ているけれど、回る事がなかった。
1Fの雑貨店をいくつか。12月なのでクリスマス向けの商品が多い。
人の贈り物をすることは幸福なことだ。
それは贈り物をすることが「受動的な行いであり、その能動性は他者の側にある」ことと通じるからだ。
簡単に言えば、相手がいるから贈ることができる。
 
 マルイの食品フロアを歩く。
ササニシキを栽培している農家の方本人が試食品のミニおにぎりを配っていた。
今はこうして直接的に視覚化しないと作り手の存在を想像できない。
昔はご飯粒を茶碗に残すと百姓の苦労を諭されたし、その諭しで理解できた。

『勿体無い』という言葉は、目の前のものに無限を観る姿勢を指している。
「あなたは自分だけで生きているのではなく、生かされている。他人、大地、太陽のお陰で。」
それゆえ、想像力が欠如するとこの言葉は意味を成さなくなる。

 お酒コーナーで越の寒中梅の試飲販売をやっていた。
越の寒中梅なんて珍しい。どうやら店頭販売しているのは醸造所の関係者らしい。
時間があったので試飲させてもらった。
黒酢栽培の新潟産百万石を使った酒があった。
黒酢をどうするのかと思ったら、農薬代わりに散布するのだそうだ。
そうすることで農薬使用を抑えている。
その姿勢に寄付する気持ちも兼ねて2合瓶を購入。

2ndステージのセットリストは以下の通り。
風はなかったが、空気が冷え込んできていた。

1.めぐりあう世界
2.魔法の人
3.その手
(テプコCMソング)
4.自由のカメ
5.やさしい花

 MCで路上ライブで培った効果的なホッカイロの位置を披露。
「鎖骨の下、首の後ろ、足首」の3箇所だそうだ。
冬の深夜の路上で5時間歌ってきた経験に基づいている。
 
 サイン会の列が進む間、贈り物をした。
 蒲田で赤霧島が呑める店がある事を教えてもらった。
 
 相鉄線で再び横浜に。東海道本線に乗り換え、川崎駅に。
 マユールに寄る。
オーブンがお昼前に突然壊れたということで、食べ物はトーストとスコーン類しか出来ないという話。
ホットサンドセットを注文。中が熱々でやけどしかけた。
 
 夜、疲れが出たのか、24時頃に気を失ってしまった。
そのため、蟲師を見逃した・・・(がくり。
 川崎チネチッタに。
「Zガンダム〜恋人たち」最終放映。
観客席は8割ほど埋まっていた。びっくりだ。
私と同じように観よう観ようと思っても映画館に足を運べなかった人が最後だからと駆けつけたのだろう。
観終わった感想としては、「これを纏めるには時間が短い」が一番だった。
群像劇なので登場人物が多いため、初めて観る人はキャラを把握するだけで精一杯だったのでは。
さて、次が最後だけれどどういう風に改変していくのか・・・

 − − − − − − − −

 こうした方向で考察すると、親密性とは、決して近しいものたちの間に生起する関係ではないことがわかる。あるいは、一見親密な関係に固有の要素であるとみられる近接性は、実は幻想的外形でしかないのであって、そこに連れ添うものを近接性、あるいは理解可能性の範囲でしか考えないとすれば、親密性は即座に暴力へと転化してしまうことになるだろう。いかに接触度が高かろうと、親密圏の住人は他者なのであり、他者とは決して「わたし」の欲望の鏡や延長ではない。ゆえに、自らの生の基底を分かち合うような親密な関係を成就するということは、近しいものを遠いものとして、あるいは最も理解不可能なものとして愛し抜くことに等しい。さらにここで言う「遠さ」とは、他者を愛するという行いが、一方的な拘束や、ナルシスティックな自己投影に終わらないため、常に念頭に置かねばならない不可能性でもある。そしてここにおいて働く愛とは、愛するものの能動的な行為では決してない。他者に寄り添われる親密圏という場において、その人を愛するということは、すでにその存在に対する応答である。だから愛することは受動的な行いであり、その能動性は他者の側にある−−一方が他方を領有しないで済む呼応関係においてはまた、時として愛が、それを断念することにより完遂されることもあり得よう。

(引用元 「遠いものを愛すること」 新田啓子)
AFO。
【クレルモン総力戦】にPC投入。
3つのシナリオのどれにマリーを入れるか、正直迷った。
どれにも因縁があるからだ。
対シシリーに関してはマリーより使えるキャラが参加した方がいいだろうという事で除いた。
残り2つはオリオン、つまりフェールがいる集団戦と破滅の魔法陣絡み。
立川MSの一連のシリーズシナリオに参加してきた事を考えれば、NPCのフェールがいるシナリオに参加するのが普通だろう。
が、これは立川MSのシナリオだ。
予定調和を期待してはならない。
勝手に恋焦がれるだけで相手との関係性が成立するような世界ではない。
事実、NPCのレイモンド卿は役に立つ、使える人を相手に選んだ。
それを踏まえての婚約は見方によっては残酷だが、AFO世界における貴族はそれが当たり前なのだ。
(更に恐るべきは、その婚約すら道具の可能性が高いということだが)
 
さて「戦う男達の後ろで、愛する男が受けた傷を癒す」というポジションは楽だ。
4行プレイングで済むし、状況に対して直接的な責任を放棄できる。
しかし、ザブングルのマリア・マリアからインスパイアされたマリーはそういう女ではない。
キャッチフレーズの「生きる事も戦いなのですね。」は義務と責任を放棄し、状況から逃亡した先に『生』はないというスタンスを示している。
もしフェールに寄り添う形で書いてしまったら、以後マリーはフェールに固執、依存する事になるだろう。
フェールの言動をずっと見続けてなければ気が済まない。
子離れできない親のように。
フェールのために献身的に働き続ける。
逃げたことに対する贖罪かのように。
その献身の背後にある期待。
その期待が裏切られたとき、憎しみに変わる。
「こんなに貴方のことを思っているのに、どうして?」
これは仏教が諌めているところの愛だ。
 
マリーはフェールの傍を離れ、自らの経験と技能が生かせる戦場に向かった。
戦いの中でフェールが死ぬ可能性は少なくないし、マリー自身も命の保証はない。
互いにそれぞれが為すべき事を為しつつ、思う。その思いは祈りに近い。
 
 − − − − − − − −
 
「私はあなたを断念する、そう決めました」。
もっとも不可能な愛の告白の、もっとも美しくもっとも不可避なるもの。

                ジャック・デリダ
日経Automotive Technologyのサイトで『BMW社,蒸気機関を内蔵したガソリンエンジンを開発』という見出しを見て、一瞬「スターリングエンジンとのハイブリッド?」と思った。
ちょうど防衛技術ジャーナルを読んでいたこともあって。
とはいえ、蒸気機関を付け加えたという言葉だけでは具体的にはどうなのかは判らないが。

 スターリングエンジンは熱効率の高さと静粛性などから通常型潜水艦のエンジンなどに使われている。
発明されたのはとても昔だが、ワットの蒸気機関の普及以降、ほとんど忘れられている。
熱効率の高さなどを考えると、LOHASなエンジンとも言える?

「スターリングエンジンて何?」>[http://members.jcom.home.ne.jp/kobysh/stirling/stirlingIntro.html]
 今週発売中の「AERA」’05.12.12号の66ページにある東京電力の広告に奥華子さんが取り上げられている。
関東以外のエリアでも同じ広告が入っているか判らないが。
 
 『シンデレラ・ヴォイスの第二幕』というコピー。
記事の内容はそれなりに演出されて書かれているが、彼女の歌の魅力の1つに声があることを指摘しているのは正しい。
CMで採用されるのもそのためだ。
 夕方の渋谷O−West。
沢山の人が詰め掛けているかと思ったが、200円という入場料の気楽さなのか開場時間になってもそれほど人が居なかった。まさか、最前列に座れるとは。
 
 indigo blue。
二人ではなくギター、ベース、キーボードにドラムが加わったバンドでの演奏は今回初めてだと聞き、少々不安だった。
急ごしらえのバンドでは一体感などなく、硬い感じになってしまうのでは思ったからだ。
でも、ライブが始まり、演奏を聴いて、そんな心配は無用だという事が判った。
実際、メンバー紹介でも以前からアルバム作成などで関わっている人達ばかりということで、音楽性の理解に関しては問題なかった。
 
 曲はアルバム「indigo blue」から11曲、新曲1曲、カバー2曲(アンコール含め)。
これを2時間未満(90分ぐらいか)でこなした。
畳み掛けるように・・・という感じで密度の濃いライブだった。
 200円。10分の1以下の値段だと思う。
もっと知人に声を掛ければよかった。
オールスタンディングじゃないなら、何人か声を掛けられたのだけど。
勿体無い。

 帰りに道玄坂のリトルスプーンというカレー屋でスープカリーを食べた。
う〜ん、メニューのメインに持ってきていない理由がなんとなく判ってしまった。
それなりに美味しいのだけど、逆に言えばそれなりでしかない。
実際、お客は結構来店するのだけど、スープカリーを注文する人は1人もいなかった。
 雨の降る中、上野の東京国立博物館に。
とても混んでいる北斎展を横目に、「華麗なる伊万里、雅の京焼」展を開催している表慶館に。
最終日だからか雨にも関わらず、それなりに人がいた。まぁ、自分もその中の一人だったわけで。
 
 伊万里焼の方は歴史的にどのように発展していったのか概観することができるものだった。
柿右衛門様式の肌もいいけど鍋島の[色絵組紐文皿」のデザインには脱帽。
その衝撃覚めやらぬまま、京焼エリアに。
仁清は名前は知っていたけれど、作品そのものは余り見たことがなかった。
いや、石川県立美術館に行った時に「色絵雉香炉」は見ていたがそれだけで独立していて他の焼き物との繋がりがなかった。
今回、重要文化財の品を観て、なるほど凄いと感じた。「色絵吉野山茶壷」など見事な構成。
そう、続く乾山もそうなのだが、構成力が凄い。この頃に1つの頂点に達した事が判る。
乾山の「色絵紅葉図透彫反鉢」。透かし彫りの穴は木々の枝の隙間を表している。
その隙間の先に別の枝の紅葉が見える。そういう位置に視点を置いて初めて3次元的に見える。
この作品ももうすぐ重要美術品か重要文化財になる。
それ以外の作品も味わい深い。良いといわれる所以が理解できた。
以降の古清水は需要に合わせた感じがあって少々色あせる。
が、最後の「江戸後期の名工達」の展示はまたキラリと光るものがあった。
一点豪華的な展示だと思っていたのだが、期待以上に堪能できた展示だった。
 
 上野から川崎に移動。
マユールでお茶をしてから家に向かう。
池上駅からの道、新しくオープンした百円ショップを覗き、台所周りの整理用品を購入。
 しばらく前から、この『Diary Note』にコメント機能がついた。
ここを見る多くがロボット検索で迷い込んで来てしまった人だと思うので余り意味はないかもしれないが。
 
 夕方、たまははきに。
梅津和時さんのライブ。
たまははきで最後のライブだという事もあり、大勢のお客が。
バスクラリネットを中心とした演奏。

第一ステージ

1.路上の歌
2.
3.I Want To Talk About You
4.イン・ウォークド・バド

 2番目の曲は循環呼吸で5分近く演奏していたような。。。とんでもないなぁ。
第二ステージでは多田さんがちょっと参加。
ディジュリドゥーを作っている人が合間に作ったという『竹サックス』登場。
根元の節が残っている辺り、尺八を連想させる。
が、音はサックス。びっくりだ。
それからアルトサックス、バスクラ、そしてサックスという感じで楽器を替えて演奏。
 
 ステージが終了したところに、おおたか静流が駆けつけて、1パフォーマンス。
二人で揃って『ぴっとんへべへべ』を歌いながら踊った。
知らなかったのだけど、これ、NHK教育でおおたか静流本人出演でやっているとか・・・
 
 馴染みの連中とライブ後も談笑し、終電前に帰宅。
 
 
 
 
 
  ・ ・ ・

ダンボールが 子猫の家
街じゃ命も 捨てられる
えさを与える 人もみな
連れて帰れる 家はない

打たれた雨に噛みつくような 鳴き声は
もっとかわいく鳴けたはずの 祈りの歌

あやまること ただ 泣くこと
他には何もできず

  ・ ・ ・

(*奥井亜紀『Lost Melodies』)
 コタツを買おうかどうか悩んでいたりする。
小さな折り畳みミニテーブルしかないので、きちんとしたテーブルが欲しい。
そのためにコタツを買うのはちょっと違っている気もする。
 コジマ電気で悩んだり、無印良品のカタログで大きさを検討してみたり。

 − − − − − − − −
(略)
そのことについて全然人間的に語ってみよう。愛の故に一切を捧げようとする衝動を感じたことのなかった人、したがってそのことのなしえなかった人、ああ、これは何と憐れむべき人間であろうか! けれどももしも人間が愛の故のほかならぬ彼のこの献身の故に、もう一人の人すなわち彼の愛人が最大の不幸に陥ることになるかもしれぬということを見出さねばならなかったとしたら、どうであろうか? そこでは次の二つの場合が考えられる。その際彼の愛が緊張力を失い、その力強い生命が途絶えて悲哀の感情の故の閉鎖的な煩悶にまで萎縮し、やがて彼は愛を見捨ててしまう、−−彼は愛の業をあえてなす勇気をもたなかったのである、かくして彼はくずおれる、愛の業のもとにくずおれるのではなしに、前述の可能性の重圧のもとにくずおれるのである。というのはちょうど分銅は竿の端の方にもってゆかれた場合にどこまでも重くなりまさるのであり、それを持ち上げようとする人はそれを反対の端をにぎらなければならないようなもので、いかなる業もそれが弁証法的なものとなるにつれてどこまでも困難の度をまし加えてくるのである、そしてそれが共感的=弁証法的なものとなるときに困難はその絶頂に達する、−−かくて愛が愛人のためになすべく駆りたてたそのことを、別の意味において、愛人に対する心遣いがそれを思い止まらせるように思われるのである。−−もう一つの場合には、今度は愛が勝利を占めるであろう、そして彼は愛による冒険をあえてする。ああされど、愛の喜悦(愛はいつも悦ばしきものである、特にそれが一切を捧げるときには)のただなかに深い悲哀が潜んでいる、なぜというに彼が愛人に危害を及ぼしたかもしれぬという可能性[#可能性に傍点]が考えられるからである! 見よ、その故に彼は涙なしにはその愛の業を成就することも、おのが犠牲(彼自身に関する限り彼は歓喜してこれを捧げたであろう)を捧げることもできなかったのである。この−−何といったらいいだろう−−、内面性のこの歴史的絵画の上にはかの暗い可能性が漂っているのだ。といって、もしもこういう可能性がその上に漂っていなかったとしたら、彼の業は真実の愛の業ではなかったであろう。−−おお、わが友よ、お前は一体この人生において何をなそうとしたというのか! お前の頭脳を絞れ、一切の蔽いを払いのけよ、お前の胸のなかの感情の最内奥をさらけだせ、そしてお前をお前が読んでいるものから引離すところの一切の障壁をとりこわせ、さてそれからシェクスピアを読んでみるがいい、−−お前はあの諸々の矛盾の前に戦慄せしめられることであろう。しかし本来の宗教的な矛盾の前にはシェクスピアでさえもたじろいでいたように見える。おそらくかかる宗教的矛盾はただ神々の言葉によってのみ表現せられうるのである。いかなる人間もこの言葉を語ることができない、−−なぜなら(既にギリシア人が非常に美しくいい現わしたように)人間は語ることを人間から学ぶのであり、神々からは沈黙を教えられるのである。
 神と人間との間に無限の質的相違が存するというその点に、取り去ることのできない躓きの可能性が存する。愛の故に神は人間となる、神は語る。−−「見よ、ここに人間の真の姿がある、おおされど」と彼は附け加える、「汝心せよ、我は同時に神である、我に躓かぬ者は幸いなるかな。」神は人間として卑しい下僕の姿をとる、−−誰も自分は除けられているなどと考えぬように、また人間を神に近づけるものは人間的な声望や人間の間の声望であるなどと考えぬように、神は卑しい人間であることの何たるかを目のあたり示すのである。
(*死に至る病)
 − − − − − − − −
 冬。
この部屋に引越ししてから初めての冬。
そろそろ暖房について考えなければ。
部屋を片付けないと何も始まらないのでまずいくつかの品物を隣の部屋に水平移動。
それから天袋の奥からホットカーペットを発掘して広げた。
これと備え付けのエアコンがあればなんとかなりそうだが、エアコンは電気料金が馬鹿にならない。
・・・今、調べたのだが、6畳間になんでダイキンのS28ATESが設置されているんだ?
99年製という古さはともかく、10畳用のが設置されてある意味は・・・ブレーカーのことを考えると訳が判らない。
しまった。こういう事を調べて置かなかったのは失敗だった。
 
 
 
 
 
 1つの事を話すのに、前提の知識を共有しておかないと難しいことがあったりする。
 
 − − − − − − − −
 いまここに一人の貧しい日傭取り(ひやといとり)と史上に類のない程の強力な権力をもった帝王がいるとする。
この無上の権力をもった帝王が突如として使者をこの日傭取りの許に遣(つか)わすことを思いついたとしよう。
帝王が自分の存在を知っているなどという考えはこの日傭取りの心には夢にも浮かんだことはなかったし、それは「その心未だ思わざりし所」であった。
もしも帝王をただの一度でも仰ぎ見ることが許されることでもあればこの男は自分を無上に幸福な人間と感じて、それを彼の生涯の最大の事件として子々孫々に語り伝えることでもあろう。
 さてこの日傭取りのもとに帝王が使者を遣わして、帝王が彼を養子に欲しいと考えているということを彼に知らせるとする、−−一体どういうことになるであろうか?
 日傭取りは、彼がそれを人間として人間的に受取るものとすれば、きっとすこしばかり戸惑いして(おそらく非常に戸惑いするかもしれぬ)なんだか羞ずかしいような困ったような気がすることだろう。
彼にはそれが人間的には何かしら非常に奇妙なこと馬鹿げたことに思われる(これが人間的なことである)ので、こんなことは決してほかの人には話してはならないと考える。
というのは知人や隣人がそれを聞いたら誰にもすぐ思いつくであろうところの解釈が既に彼自身の心の底にも頭を擡(もた)げてきているのである、−−帝王は自分を馬鹿にしようとしておられるのだ、それで自分は街全体の笑いものになり、自分の漫画が新聞に載せられ、帝王の皇女との自分の結婚話が大市で売られることになるのだ、と。
 いったい帝王の養子になるというこのことは、むろんすぐにでも外的な現実となりうることなのであり、したがってまたこの日傭取りは、帝王がどの程度までそのことを真剣に考えているのかどうか、それとも帝王はこの貧乏人をただ馬鹿にしようとしているのか、その結果彼の全生涯を不幸なものにし、結局彼が気狂病院ででも終るようにしむけるつもりなのかどうか(というのは、いまの場合のような度のすぎたことをいうものは、容易にその反対に転化しうるものだから)、を自分の五官でたしかめうるはずなのである。
 ところが小さな好意を示されたのであればこの日傭取りにも理解することができるであろうし、小都会に住んでいる人達もそれを理解することができよう、大いに尊敬せらるべき教養ある公衆も、すべての聡明な御婦人達も、要するにかの小都会の五十万の住民の一人一人(一体人口の点ではこの小都会も或いは相当の大都会であるのかもしれぬが、並はずれたものに対する感覚と理解の点ではまことにちっぽけな小都会なのである)がそれを理解しうるであろうが、日傭取りが帝王の養子になるなどということは、これはあまりといえばあまりのことである。
 ところがいま外面的な事実は全然問題にならないで、ただ内面的な事実だけが問題であるとする、したがって日傭取りを確信に導きうるようないかなる事実も存在せず、信仰のみが唯一の事実であるとする、そこで一切が信仰に委ねられているとする、−−その場合でも彼の男にはあえてそれを信ずるだけの十分に謙遜な[#「謙遜な」に傍点]勇気があるであろうか?
 というのは厚顔な勇気は信仰[#「信仰」に傍点]まで導くことはできない。その場合一体それだけの勇気をもっている日傭取りが幾人いるであろうか?
 さてそういう勇気をもたぬ者は、躓くであろう、並はずれたことが彼には彼に対する嘲笑のように響くことであろう。
おそらくその場合彼は明らさまにまじめにこう告白するであろう、−−「そういうことは私にはあまり高すぎる、私はそれを理解することができない、(腹蔵なくいえば)それは馬鹿げたことのように思われる。」

*『死に至る病』
いやはや・・・
ともかく替え歌を考えよう。
http://www.rbbtoday.com/news/20051130/27378.html

「自分なりのささやかな幸せ」という言葉を聞いて連想するのが、「Papa told me」の登場人物たちだ。
 本当に他人事じゃなくなった。
池上にも耐震性偽装マンションが・・・
大田区にはまだまだありそうな・・・
会社の人が住んでるマンションがヒューザーが関与してるものらしい。
「構造設計は姉歯氏のところではない」という張り紙が掲示板に張られたいたという。
う〜ん。
 
 牛肉偽装事件の様に建設業界のほとんどが似たような不正をしているのではという疑念。
存在の証明よりも不在の証明の方が難しい。
 
 三位一体改革で生活保護費の削減を見送り、代わりに児童扶養手当や児童手当などの削減する案が政府・与党で合意された。
 これはつまり、保護者が亡くなった後のニートの面倒は国が、少子化進展の責任を地方が一部負う・・・と捉えていいのだろうか?
 児童に関する手当が少ない地方自治体では経済的に子供を産む事が躊躇われたり、赤ん坊を抱えた家庭はまだましな隣の地方自治体に移転したりして将来人口が確実に減ってゆくだろう。
 近い将来増大するニートへの生活保護費削減対策として、国は自衛軍に職を強制斡旋でもするような事になるのだろう。
 

 ・・・偏頭痛のせいか、書き込みの毒が強いな。
 AFO:ノルマンのリアイベ。
18PCを適材適所に配分して50文字とはいえプレイングを書いて・・・全部で2時間ぐらい掛かっている。
お陰で5PCがノベルに載る事ができた。
しかし、手薄で中央突破されるのは・・・

 耐震強度偽造マンションの一件で明日、国会審問が行われるらしいが、肝心の姉歯氏が出席しない。

>「衆院事務局によると、姉歯氏は森田設計事務所の代表が自殺したことに何度も触れ
「精神的に参っている。怖くて外出できないので、委員会で答弁できない」と述べた。」(毎日新聞)

 どうして『怖い』のだろうか?
知人の自殺を知り、それに自分が関わっている事を認識した場合、普通は「己の所業に慄いたり、悔やんだり」するものだ。
知人とはいえ他人の「自殺」を怖がるというのは捉え方として違っている。
 
  「他殺」なら、ともかく‥‥
 
 とまれ、彼が知っている全てを彼が生きているうちに昭かにして欲しいものだ。
 
 奥井亜紀さんのライブ『銀のスプーンが1ダース』。
1ダースは12周年を掛けてのもの。
 今回は店頭で買ったため、中に入るのが遅かった。
中はパイプ椅子が並べられていたけれど、端の席しか残っていなそうだったので、椅子の列より後ろの立ち見エリアのステージ中央に面したところで立ち見。
 
 開演時間。渋谷O−Westは満員。
余り表立った活動をしていないのにこれだけお客が集まるのだから大したものだと思う。
 照明も凝っているけれど、衣装も凝っている。
毛糸をアクセントに使っているのだけど、その配色が好みだ。青とオレンジの組み合わせが映える。
 
『目黒川』は少ない時間で一気に作ったけれど、その代わり亜紀さんの基本的な良さが入っている。
 
『デッサン』を歌うためのMCで言葉遊び的な連想でデッサン→デザート→デザイア→中森明菜と話が。
不幸な歌を歌うは愉しいのだそうだ。中森明菜のそういう歌とか。
「歌謡曲とかPOPな歌を聴いていたイメージがなさそうかもしれないけれど、中森明菜さんの歌や翼の折れたエンジェルなどを聴いていた」とか。
『愛はかける』は亜紀さんの一番理想とする恋愛があるのだそうだ。
冬に聴く『ゆきうさぎ』は心に染みる。
『夢の帆船』は相変わらず聴く人をハッとさせ、鼓舞する。

『Lost Melodies』を聴いて震えた。
今、読み進めている『よく生きる』の内容とリンクした。
奥井亜紀と奥華子という二人のシンガーソングライターの違いがここにあるのだな。
 
 ライブ終了後、サイン会。
最後の人は1時間以上並んでいたと思う。
それにしても、自分、握手しながら掛ける言葉がどうして上手く言えないのだろう。
「歌い続けてください」と言うつもりが「がんばってください」なんて・・・(沈。
 
 まめおとこさん達を見かけたので挨拶。
ファンクラブに入っていない事もあって、彼らの中にちょっと入りにくい。
この辺りは華ちゃんの千葉の常連グループとも通じるものだけれど。
 しかし、声を掛け続けないとドンドン声を掛けにくくなる。
運動不足のために体が思うように動かなくなり、それが嫌で更に運動しなくなるような。
 
 だから挨拶が大事だ。
 早めに会社を退出して、荻窪のライブハウス「ベルベットサン」に。
 夕暮れ風鈴楽団のライブ。ここ半年以上ライブを観にいけなかった。
あきぞさんはどうやら風邪を引いているようだ。開演前に咳をこほこほしていた。
大丈夫かしらん。

1.らせんのダンス
2.草原のダンス
 MC
3.レーズン
4.(ヤポネシア・・)
5.旅をする
 MC
6.赤い実
7.神様よりも高い場所
8.Oh,My Baby
9.夕暮れに涙

 ライブハウスのスタッフに気遣われていたが、歌い出せばしっかり。
今回、「旅をする」などを聞きながら、笠置シヅ子に似ている気がしてきた。
 
 ベルベットサンは初めて訪れたのだが、よいハコだ。
道路に面したガラス窓側がステージになっている。
そのため、青梅街道を行き交う車や人々の姿を借景にして演奏者が演奏を行う。
面白い効果が生み出されている。

 あきぞさんはどうやら本気の風邪のようで熱があるらしいのだが、
明日、友人の結婚式で歌を歌うということで自分のステージが終わったら早々に撤収。
これから電車かバスに揺られて名古屋まで行くらしい。

 対バンはMITATAKEという男性二人ユニット。[>http://www.serpent.cc/mitatake/index.html]
ヴォーカル兼ハーモニカ、ギターという編成。
これが良かった。期待していなかったのだが。
演奏したほとんどがカバー曲だったけれど、自分達のものに解釈し、真っ直ぐに歌い上げている。
この真っ直ぐさは奥さんに通じるところがある。
たんぽぽなど野の花の美しさのような。
それだけに、彼等が今醸し出している魅力は長くて4,5年だろう。
仲間内の宴会芸でいいならばずっと続くだろうが、少しでも上を目指したら変わって行かざるを得ない。
 
 
 ベルベットサンはスタッフの雰囲気もいいし、アコースティックな演奏でも良さそうだ。
プラグデイジーの演奏をここで聴いてみたい。
 20時に品川駅でたけみつさんと合流。
彼は名古屋から横浜パシフィコで行われている学会の全国大会に発表するため出張。
折角だからとたまははきに連れて行くことに。
昨日、たまハイクだったこともあり、今日はお客が少ない。
カウンターに腰掛け、まずは純米を冷やで、次に燗という順序で頼む。
突き出しは摩り下ろしたヤマイモにポン酢醤油を掛けたもの。
もちもちとした食感がいい。
 肴は冷奴、牡蠣オイル、衣かつぎ、カキノモトの酢のもの、ほうれん草のお浸し、鯖の一夜干し、豆腐の味噌漬け・・・と言った塩梅。
カキノモトをツマミながら、食用菊を普通に食べるのか尋ねたところ、彼の親の実家の宝塚では食べていたという。
たけみつさんはたまははきを気に入ってくれたようだ。
名古屋でこういう感じの居酒屋を見つけたいと言っていた。
探せばあると思うのだが、チェーン店や手羽先の店以外はこういう素材勝負の肴を出す店は余りないらしい。
今日訪れた人へのスペシャルメニュー「イノシシ肉の網焼き」が出てきた。
先月まで店主を務めていた親父さんの長男が西表島に戻っている。
今年最初のイノシシ狩りで仕留めたイノシシの肉が送られたのだという。
今日、来た甲斐があった。野趣溢れる歯ごたえのある肉は味わいも濃く、美味しかった。
他にも酒が進んで最後に出てきた豆腐の味噌漬けにはかなり感慨を持たれた。

 話のネタは医療業界のIT化とか、AFOやBNOの近状とか。
時のたつのを忘れて、終電帰り。
 
 今度はこちらが名古屋を訪れたいが、出張以外で出かけられるのは何時頃になるだろうか。
 結局、神戸往復の旅費が捻出できないのと機会の優先度を鑑みて、コトリ木さんのライブは今回諦めた。
コトリ木さん企画イベントということで興味深かったのだが。
 そういう後ろめたさがあったのか、第22回(そして恐らく最後の)たまハイクへの集合に見事に遅刻した(沈)。
路線検索サイトできちんと調べたはずなのに…
 高尾駅9時集合のところを15分遅れての到着だった。蒲田駅でもう少し冷静な判断が下せたら5分短縮できたろう。
 そんな感じでいきなり負け犬モード。
失態の咎としておごって〜というツッコミに薄ら笑いで返すぐらいしか気力がなかった。
 
 ハイキングは小仏峠から城山の頂上へ。ほとんど歩かない人や高齢者も参加するだろうということで、とても楽なコース。
実際はそれほど厳しいメンバーはいなかったのでスイスイ進んだ。
 リーダーが先週登ったときは風が厳しくとても寒かったらしいが、今日は天候に恵まれて折角持ってきた防寒具が役立たずだった。
 参加者は団塊の世代とその子供世代。特に子供世代は登山道を歩いた事がない事がよく判る。
対面ですれ違う人と「こんにちは」と挨拶する人が誰もいなかった。
こういう同好の士との一期一会を意識した挨拶は同行者の行動から学ぶものなので、しないという事は知らないという事だと考える。
自分も尾瀬に連れて行かれなかったら身に着かなかったろう。
 
 それにしても人が多い。頂上はさながら、都内の公園のようにあちこち人が屯している。
景色のいい斜面の辺りに座ってお昼。私はほとんど昨日買った惣菜とか〜。
朝起きて料理を作って来ている人には感服する。自分も6時半に起きたけど、そこまで余裕がなかった。
居酒屋主催だけあって、ほぼ全員が酒を飲む。
四合瓶は流石に持ってくる気になれなかったので私はワインの小ビンや缶ビールだったが、中には一升瓶を持ってきた猛者も。
 
 登りよりも下りの方が大変。それでも大した距離でなかったので全員無事に下山できた。
少し歩いたところにある弁天島温泉「天下茶屋」[>http://www.tenkachaya.com/]に立ち寄った。
帰り入浴・休憩・昼食のCコース。
温泉で汗を流した後、座敷でごろ寝したり、鮎の塩焼きをツマミに持ち込んだ酒を呑んだり。
参加者のほとんどこれが目的だったりして。
 
 JR相模湖駅まで送迎バスで送ってもらい、解散。
来年からは「たまハイク」という名前は付かなくともまたハイキングに行きたいねぇ。
 
 帰りがけにとこさんが作品を展示しているという三軒茶屋近くのギャラリーに足を伸ばしたかったのだけど、閉店時間まで僅かだったので断念。
大荷物を背負ったまま、渋谷に出てタワーレコードを冷やかす。
しかし・・・余りに沢山のCDが有りすぎる。選択の幅が広すぎて、拡散しているのが良く判る。
 奥華子さんのオフィシャルサイトを覗いて、愕然。
 
>●JR東日本の「エキナカ」シリーズのCMが始まりました。
> 西田尚美さんが出演している品川駅のCMです。
 
 JA共済、アセロラドリンク、テプコひかり、そしてJR東日本のエキナカ・・・
 
 一体、何が起きているのだろう。

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